ま、適当に

思いつきで書くよ

5D Mark II β機サンプル

デジカメWatchというサイトでサンプルが出ましたので見てみました。その感想は、「ほらね、やっぱりね。」
ついでにLを冠した標準ズームのへなちょこっぷりも再確認しちゃったよ。

サイト名にリンク貼っときましたんで、ま、見てみてください。(ちょいと気が早すぎだけど、Mark III、絶望的な感じ。)

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  1. 2008/10/29(水) 21:10:23|
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頑迷保守原住民

なんか秋になって、このブログに書き込む内容がネガティブキャンペーンみたいな傾向を見せてます。すいません。黄昏れた季節のせいなんだかどうかは分かりませんが(←性格のせいかも)、徐々にF・マリノスの調子も上向きはじめ(今日、久しぶりに勝ったッス)、もう少しで私自身のガス抜きが完了致しますので、あと一つだけネガティブものをご容赦。

数年前にちょっとムカついたことがありました。わたしゃそれほど執念深い方ではないと思ってるんですけど、なぜかこの件だけは未だに思い出してはムカついたりしております。こんなしょうもないどうでもいいようなことに未だに感情を左右されてしまうという状態は精神衛生上も全くよろしくないことだと思いますので、ちょっとここに書いてみます。

私、「田舎モンって果てしないよなあ」って思うことがよくあります。

数年前に地元のある団体に所属していたときのことです。その団体では通常の連絡にFAXを使用しておりました。毎月出している活動スケジュールの定型ファイルはもちろん、外部から回ってきた関連イベント紹介のワードやエクセルファイルまで、わざわざ印刷してからFAXしてるんです。それも、FAXを受け取った人が次の人に回すという直列つなぎで回覧順序を設定してるもんだから、連絡が回るのに何日もかかるわ、最後の方の人は字がつぶれちゃって読めないわってんで、いいことなんか一つもない。こりゃバカらしいと思った私は同様のことを考えていた何名かと意見を交換した上で、その団体の連絡係の人(この地域で生まれ育った土着原住民)を捉まえて、次のように提案しました。

「回覧の手段ですが、電子メールの活用をご検討願えないでしょうか。」

すると、その連絡係の方は「何を馬鹿なこと言い出すんだろ、こいつは」ってな顔をして

「それは無理です。メールを持っていない人もいますから。」

ってビシッと仰られました。電子メールをできない人がいる。それは確かにその通り。なら、それぞれ便利と思う方法で情報を回せばいい。そこで、次のように提案し直しました。

「ええ、それは承知しています。それぞれの事情もあるでしょうから、FAXがいい人とメールがいい人でグループ分けしてみてはいかがでしょう。それぞれがそれぞれ好しとする通信媒体で情報を回せばいいと思いますが。」

でもダメでした。この方は露骨に「まだ分からないのか、この馬鹿は」ってな顔を見せながら言うんです。

「それは不公平でしょう。」
「へっ、・・・・・不公平・・・???」

仰られる言葉の意味が分からず、思わず絶句してしまいました。そしてここからはもうどんどん訳が分からなくなってくるんですけど、なるべく忠実に当時を再現してみると、次のようになります。

どう考えても理解しようもないお言葉だったので、「何が不公平なんでしょうか?」と問う私に、この方はこう答えられました。

「FAXを受けたら、皆さん、それだけで終わらずに次の人に回しますよね?」
「はい。」
「受けたら出す、これが基本なんですよ。」
「はあ・・・基本・・・・ですか・・・???」
「それが、メールを使ってしまうとほとんどの人がただ情報を受け取るだけで、自分から出すことなく終わってしまうわけでしょ。不公平じゃないですか。」
「???」

こんなことを、”どうだ、まいったか”ってな感じで、さも説得力ありげに真顔で言い放つんです。あんまりな出来事に何かの冗談かと思って苦笑を返してみたのですが、その表情を見る限りはどうも本気らしい。こりゃ埒が明かないと思った私は、アプローチを変えて、メールのメリットを直接訴えることにしました。

「FAXだと最後の方は字がつぶれて見えなくなるんですよ。これでは回覧の意味がありませんよね?それに、途中で不在者がいたりして回覧し終わるまでに何日もかかってしまうんです。電子メールを同報で流せば、クリアな情報があっという間に全員に伝わると思いますがどうでしょうか。」

するとこの方、なんと怒り出しました。

「勝手なこと言わないでください!」

勝手なことって・・・・・何でこんな意味不明なことで怒られなきゃならないのかさっぱりわからなかった私は、頭の中にある戦闘モードのスイッチをほんのちょっとだけ入れて、再び尋ねました。

「どこが勝手なことなんですか?既存プロセスの簡便性や利便性を上げる検討というのは、どんな組織においても当たり前にやるべきことなのではないでしょうか。」
「・・・・」
「ではお聞きしますが、連絡方法という手段に”情報の出し入れ”という余り意味を持ちそうもない平等性を求める意義はどこにあるのですか?」
「・・・・」

ちょっとだけ腹に力を入れての発言でしたが、この私の言い回しがいきなりこの方のIQレベルを上回っちゃったらしくて、呆けたような顔をしていらっしゃいます。その情けない様子を見て”こんなのとディベートする価値もない”と思った私は、静かに戦闘モードのスイッチを切り、再び穏やかな気持ちを100%取り戻して、阿呆でも簡単に答えられるように質問を変えました。

「字がつぶれて見えないという回覧の本質を犠牲にまでして、連絡を受け取ってまた出すという行為を皆に強いることに、何の意味があるのかお聞きしたいのですが。」
「・・・」

ここでようやくなんとな~く私の質問の意味を理解できたようでしたが、もちろんこの方に合理的な回答などできようはずもありません。そこで、もうちょっと言い方を変えてみました。

「現に、メールの方がいいという方もたくさんいらっしゃいます。それがなぜ”勝手なこと”になるのでしょう。」

すると、この方は何らかの反論を思いついたのでしょう。ようやく生気を取り戻し、「もうお前と話をしたくない」ってな態度を露骨に示しつつ、こうのたまいました。

「コストがかかるでしょ。メールの発信にかかるお金は誰がもつんですか?」

こいつ、真性のバカ・・・・・もとい、私はだんだん呆れてきました。余裕で50歳を越えてるってのに、これほど説得力なく、いや、そこに何の意味すらなく、ガキでもしないような訳の分からん屁理屈で切り抜けようとする人の存在が信じられなかったからです。が、一応こちらも数名を代表して提案しているわけですから、言うべきは言わなければなりません。

「それは”メールの発信費用”が”勝手なこと”とどうつながるのかというこちらの質問の答えになってませんね。それに、FAXによる発信を強いる一方でメールのコストに言及するその意味すら理解いたしかねますが、それら全てを置いて、まずあなたの質問にお答え致しますと、メールのコストなんてせいぜい1円くらいだと思いますよ。間違いなくFAXより遥かに安上がりです。ファイルをそのまま添付すればいいだけですから印刷代もかからなくなりますし、手間も減りますし、各家庭でのFAXの通信代はもちろん、紙代、インク代の節約になったりもするんじゃないでしょうか。」

知らず知らずのうちに自動戦闘モードに切り替わちゃっていたらしい私が一気にこう申し上げると、この方は黙り込んだままです。足りない頭で軽率に”コスト”などを持ち出しちゃってさすがに自ら墓穴をお掘りになられたことにはお気づきになられたようなんですが、言い返すことができなくてなんだかとっても悔しそうです。しばらく沈黙が流れました。めげない私は畳み掛けました。

「さあ、どうですか。常識的に考えて、ディスアドバンテージは考えにくい。それにこれ、全員こうするという話ではありません。電子メールの方がいいという方だけで実施すればいいだけの話ですからね。電子メールの活用、ご検討願えませんか?」

すると、この方は吐いて捨てるように言いました。

「ダメです。そんな勝手なこと、絶対にさせません。」

挙句の果ては、仏頂面して言い放ちました。

「なんでそんなにメールにこだわるんですか?」

言いも言ったり!まるでこちらがこだわりだらけの頑固な石頭とでも言わんばかりのこの言い草。いい年こいたジジイがこんな訳分からん反応を示すのです。この人の言動に合理的な説明のつけられる方っていらっしゃいますか?我が理解を遥かに超えた存在。

「なんじゃそりゃ!お前がFAXにこだわってるだけだろ、ボケ!」

ぶち切れたフリしてそう反応すべきか一瞬悩みましたが、そんなことしても解決しそうもないので思いとどまりました。そして、この人は話の中身などどうでもいいのだ。きっと私と喧嘩をしたい一心なのだろう。そう結論付けました。てか、それ以外に自分を納得させられませんでした。こんな超低レベルの人間と超低レベルの言い争いをしても不毛であると思った私は、

「あなたに論理的思考力が全く備わっていないってことがよくわかりました。時間の無駄ですね。失礼しました。」

そう言ってその場を離れました。

これ、実話です。

その後、この男が私のことを「メールを持っていない人のことも考えずに、自分の都合だけで”メール、メール”って頑強にねじ込んできた」とかなんとか、妙な脚色までして私の悪口を言いふらしたことは言うまでもありません。(残念ながら、誰からも相手にされなかったみたいですが。)話を自分に都合よく捻じ曲げて人を貶めるのがお得意なイジメ体質の陰湿女子小中学生ってんならともかくねえ。こいつはもういい年こいた押しも押されぬクソジジイなんですけど・・・・・ホント分かりやすいよね、田舎モンのやることって。

今の枠組みを何一つ変えられないポイントはずしまくりの頑迷保守原住民、あなたの街にもいらっしゃるのでは?

  1. 2008/10/26(日) 00:35:50|
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母親争乱

こたろチームに騒動が持ち上がりかけてます。その気持ち、よく分かるだけに・・・・・

  1. 2008/10/23(木) 21:37:38|
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ディフューザー

来月上旬までに免許証を書き換えなければなりません。
そのためには、自分の上半身の写真を撮らなければなりません。
そのためには、背景真っ白の壁を背に撮影しなければなりません。
そのためには、三脚立ててタイマーセットしてストロボ炊かなければなりません。
そのためには、光がよく回る環境を家の中に現出させなければなりません。
そのためには、ディフューザーを用意しなければなりません。

というわけで、昨日今日に引き続き明後日も東京さ行きますんで(最近、怒られに東京ばっか行ってます)、時間ちょろまかしてお隣の有楽町で下車して、ビックカメラでディフューザーを買っちゃおうと思います。(本当は今日買おうと思ってたんですが、すっかり忘れてました。)

これまでディフューザーは自作しておりました。片面だけトレーシングペーパー仕立てにしたティッシュ箱の内側にアルミ箔貼ってそこにストロボの発光部を突っ込んだやつとか、段ボール箱を切ってアルミ箔をグシャグシャにして貼り付け、フラッシュ光がその面に反射してランダムな光が被写体に当たるように工夫したやつとか、カメラ(銀塩EOS5)を買った当初はホント、面白がっていろいろなことしてました。

渡米後は、もっぱらバウンズで撮ってました。とにかく米国の家ったら単純で、どの家に言っても天井も壁もじゅうたんも全部白(ってか、薄いベージュ)。撮影方法も環境も、どちらも光が見事に和らぐ方向に機能しておりましたんで、ディフューザーなどあまり必要としなくなっちゃったんです。

帰国してからまた、ディフューザーの自作を始めました。最近の数年間は、100円ショップでごみとりネット(真っ白なもの)を買ってきて、ストロボの発行部に輪ゴムで取り付ける。こればっかです。これだけで毎回効果が微妙に違うディフューザーが出来上がりますんで、味があって結構気に入ってたってのがその理由。

で、最近はその自作ディフューザーも使うのが面倒になってきました。ディフューザーとしての効果を得るため、ごみとりネットを数重かに重ねてシャワーキャップみたいにしてストロボの頭にかぶせるんですけど、重ねたネットが偏ったり光の減衰量の計算が出来なかったりしてどうしてもムラが出るから厳密に光をコントロールするようなシチュエーションには不向きですし、ちゃんと撮ろうとすればするほど、微妙に気に入らない結果に陥るということに気づいたからです。また、ああいうフニャフニャなものを形を崩さないように機材とともに持ち歩くってのも面倒で・・・・。

買うのはエツミ製ストロボディフューザーG4ってやつ。これ、どう見ても原価10円くらいで作れちゃいそうな代物なんで、こんなのに2千円近く支払うことに納得できない部分はあるんですけど、ま、こんなの買うのは人生一回こっきりってことで自分をごまかしてます。効果については、そのうちにまたご報告いたします。

  1. 2008/10/21(火) 22:16:21|
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やけくそ

大分、がんばれ!

  1. 2008/10/20(月) 21:08:21|
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故意による無気力相撲

1989年と1991年の2回にわたって当時の理事長であった二子山親方が全力士を集めて「最近とみに故意による無気力相撲が増えている。俺たちの目は節穴ではないぞ。」と言ったらしい。その証拠テープがあって、相撲協会もこの発言自体を否定することは出来ないらしい。

でもって、この”故意による無気力相撲”のことを、講談社は「八百長相撲のことだ」と言っている。これに対して北の湖は、「病気やケガにより力をわざと抜いてとる相撲のことだ」と言っている。さて、どちらが正しいのか・・・・・・なんてことを裁判でマジな顔して争っている。

アホか。もし病気・ケガだったとしたら、みんなの前で”故意による無気力相撲”なんて理解し難くて回りくどい言い方するわけねえだろ!理事長が全力士の前で「俺たちの目は節穴ではない」なんてヤクザまがいのセリフ、言うわけねえだろ!そもそも、病気やケガをおしてわざわざ出てきてるってのに、わざと力抜いて負ける理由がねえだろ!

更に突っ込みを入れられた北の湖は、「”故意による無気力相撲”というのは懲罰の対象であり、最も重いと”除名”処分になる」と答えちゃったらしい。そう答えなきゃ二子山親方の発言とつじつまが合わなくなったって事なんだろうが・・・・

アホか。病気やケガしてんのにわざわざ出場して力抜いて懲罰を受けるくらいなら、最初から休場するに決まってるだろ!そもそも、そんな理不尽で誰もやりそうもない”故意による無気力相撲”が「最近とみに増えている」わけねえだろ!!!

北の湖ももう少しマシなうそをつきやがれ!バカすぎる!

  1. 2008/10/17(金) 23:29:30|
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被写体

以前にどこかに書いたかもしれませんが、私がカメラを構えるとき、その撮影対象となるのはほとんどが”人”です。その他では近所のスナップくらいはたまに撮ったりするんですけど、それ以外はからきしなんです。世の中には写真を趣味にしている方が多数いらっしゃいますが、そういう方々がよく撮影されているような花とか虫とかのマクロ撮影、風景、電車・蒸気機関車・・・・、こういうものにはほとんど興味がありません。また実際、これまで撮り溜めてきた我が家に残っている2万枚超の写真・画像の中にもそういう写真はほとんどありません。もちろん、マクロや風景、あるいは人以外の被写体に興味がもてれば趣味の幅が広がりますので、趣味の幅を広げることに命を燃やすタイプの私といたしましては、このブログでもいくつかご紹介して来たとおり以前から何かとじたばたしてきたわけですが、それでもまだ一向に興味がもてないでいるわけです。

それはなぜかと鑑みるに、やはり「写した写真の特異性(特殊性?)」ってところに価値観を見出しちゃっていることが大きな要因になっているように思います。

例えば、花とか虫、あるいは美しいと定評がある地域の風景、電車や機関車・・・・こういう被写体があまりに一般的に過ぎる写真って、自分が撮らなくても誰かが撮ってるじゃないですか。ネットを検索すれば、あるいは図書館行って写真集を開けば、似たような写真はいくらでもある。そんな写真を時間と金かけて今自分が撮って何になるの?そう思っちゃうわけです。自宅で咲いている花とか自分が飼っているペット・昆虫とかいうならまだ話は分かるんですよ。そこにはそれなりの特異性がありますからね。でもね、例えば今日も仕事で電車乗ってたらホームの端っこに電車小僧がいっぱいいましたけど、あれは何なのでしょうか。はっきり言ってこいつらの行動、意味分かんないッス。

「お前らが撮ってるような写真はネットに行けば誰かが公開しているだろ?それを今、あんたが高い機材を買い揃えてまでして撮影することに何の意義があるんだ?」

聞けるもんならそう聞いてみたいくらい。(そんなわざわざ喧嘩売るようなこと、実際にはしませんけど。)

それが、”人”となると話は別ですよね。表情一つとっても刻一刻と変化する。おまけに家族とか知人・友人の写真がネット上で検索出来たり、ましてやこういう人たちの写真集なんてこの世に存在しませんから、そういう被写体を撮影した写真ってのは特異性大爆発といったところで、自分が撮らなきゃ誰も撮らないという何物にも代え難い前提がある。そこに撮影する意義がある。記録に残す意味がある。これまで撮ってきたサッカーの写真然り、野球の写真然り、家族旅行の記念写真然り。そう考えちゃって何も省みないわけです。

こんな狭苦しい価値観を持っちゃった因果なのでしょうか、未だにどうしても他の撮影ジャンルに手を出せないでいます。せっかく撮影機材があるのですから、おいらだって撮影の幅を広げたい。興味を持てるモンなら持ってみたい。私のこの”人”に凝り固まった頭を粉々に打ち砕くような画期的屁理屈はないものでしょうか。名づけて「撮影精神論」。屁理屈大魔王である皆様からのメールをお待ちしております。

(あっそうそう。昨日一人で勝手に盛り上がってた通勤燃費記録だけど、また事故渋滞があって元の木阿弥になっちゃったッス。・・・・グスン。・・・・つくづく思うんだけど、おいらっていつも決まって土壇場で転ける運命にあるみたい。)

  1. 2008/10/16(木) 23:20:02|
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5-3.燃費向上に向けて

さて、これまで数多くの燃費向上策をグダグダと述べてまいりましたが、いよいよ本日を持って燃費に関する連番対応は最後となります。(第4章が一部残ってるけど、それはさておきってことで。)

これまで触れてきた項目の中で私が実行していないものがあります。それは「20L毎に給油」です。その理由は「面倒くさいから」。片道35km強、往復70km以上の車通勤をしているため、20L毎となるとだいたい3往復に1回の給油になります。3日に1回給油するなどあまりに面倒・・・・・というわけで、私はミスミス0.1km/Lも燃費を改善できる機会を自ら放棄しているわけです。まあ、燃費計の係数を満タン法で補正し続けなければならないという使命がありますから(?)、それをするためにこの項目だけは勘弁して、と言い訳して自らをごまかしている部分もあります。

実はこの「20L毎に給油」については、ある条件が整えば実施しようと決めています。その条件とは、「通勤往復連続5回の平均燃費が12.2km/L(10・15モード燃費)に達したら」です。

「通勤で10・15モード燃費を越える。」

これが車を所有して以来、終始一貫している私の燃費目標です。休日のように行き先も何もバラバラな中で燃費目標を立てても意味がありません。道のり、時間帯が一定した通勤燃費をどう引き上げるか。これが私の燃費向上のベースライン。必ず10・15モード燃費(12.2km/L)を越えてみせる。やるったらやるんです。

単発でしたらこの記録は何度も出したことがあります。最高記録は12.9km/L。これは私にとってはものすごい記録なんですが、その理由は単純明快。「仕事の関係で朝はいつもより30分早く家を出て、帰りは夜遅~くなったため」です。要するに、道がいつもよりずっと空いていたからなんですね。でもこんなのはいんちきだ。やはり連続した記録で燃費を引き上げないと本物とはいえない。というわけで、何の根拠もありゃしませんが”5回連続の平均燃費”という自主規制を設けて燃費記録を狙っているのです。(逆に、通勤燃費の最低記録は10.1km/Lです。この記録が出たのは雪の降った翌日のことで、寒い上にそこら中に小渋滞が発生してたモンですから、そのたびに加減速を繰り返していました。)

それがこの秋、ようやく12.0km/Lに乗っかってきました。そして今現在、あと一回普通に乗れば12.1km/Lをクリアします(ちょうど5回前の記録が事故渋滞にハマって最悪だったんです)。10・15モード燃費まであとたったの0.1km/L。されど0.1km/L。この差は小さいようで果てしなく大きい。早くしないと燃費の悪化する季節、即ちエアコンを常時使わなければいられない梅雨・夏になってしまう。その前に何とか・・・・・

こいつが12.2km/Lに達したとき、私はおもむろに20L毎に給油し始めることでしょう。そう、順調に行けば明日からってことです。たった3往復でタンクがカラになっちゃうちょこまかとした給油。でもこれは燃費記録を0.1km/L引き上げる効果がある!(←平均で・・・ですけど・・・)即ち、うまくいけば通勤燃費が12.3km/Lになって、10・15モード燃費を上回るかもしれないんですよ。私にとって「20L毎の給油」は最後の切り札なんです。

日本帰国以来5年越しに掲げてきた目標が、今ようやく手の届くところまで近づいて来ました。道路の僅かなアップダウンと山道走行。まだこの辺に燃費ブラッシュアップの余地が残っていることはわかっています。頭の中にある瞬間瞬間の対処法は、今まさに高みへと上り詰めようとしている。でも、いくら頭の中で分かっていたとしても、それが実際の運転で再現できなければ意味ありません。一つ一つは全行程から見れば0.01km/Lの改善に過ぎないのかもしれない。でもこれを一つ一つ積み重ねていくしかないのです。それが自分のものとなったとき、いちいち意識しなくても自然にそれができるようになったとき、また一つ階段を上るのです。そして、数字は確実に上昇するのです。

その積み重ねでようやく12.1km/Lまで来ました。長かった。でもあともうちょっとです。この究極の目標が達成されたとき、私は・・・・・ん?・・・・・え~っと・・・・・・どうするんだっけ?

  1. 2008/10/15(水) 22:12:58|
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チャイコフスキー

チャイコフスキーの作曲する楽曲はとにかくとっつきやすいメロディが多く、今でも様々なところで流されています。交響曲とか聴いていれば分かるんですけど、各楽器とも音階を上下する要素が数多く登場し、それをもって彼の音楽は(うろ覚えではありますが)音階の音楽と言われています。(てか、いわれていたような気がする。)前にも触れましたが、彼のヴァイオリン協奏曲は私のお気に入りの曲の一つで、「メロディが単純=つまらない=嫌い」という私本来の嗜好に逆らった数少ない曲でもあります。

シンフォニーでは彼は連番のついた交響曲を6曲残しておりますが、私が聴くのは主に後期三大交響曲と呼ばれる4番、5番、6番です。この中で特に聴くのは4番で、その昔ラッパ吹いてた頃には自分で演奏したこともあります。次いで聴くのは6番「悲愴」、最下位は5番ということになりますが、個人的嗜好のレベルから鑑みると、大げさに順位を付けるほどの差はありません。

この3曲のお勧めディスクは、なんといってもムラヴィンスキー指揮レニングラードフィル(現サンクトペテルブルク交響楽団)の演奏です。わたしゃ、これら3曲のディスクはそれぞれ10種類近く持っていたりもしますが、どれを聴こうかと悩んだりした場合は必ずムラヴィンスキーに収束されていきます。このコンビが生み出している無駄を排した極めてロシアンチックな演奏は、名演というよりも豪演と言ってしかるべきとてつもない出来に仕上がっています。

一般的に言って、チャイコフスキーは(ピアノコンチェルトを除くと)バレエ音楽で有名だと思います。「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」は彼の三大バレエ音楽と呼ばれ、特に「白鳥の湖」なんぞは世の中のあちこちで耳にしたりします。私はというと彼のバレエ音楽はさほど好きというわけでもなく、特に最も有名な「白鳥の湖」に至っては大嫌いな曲の一つで、ちょいと耳にしただけで虫唾が走ったりします。どこがどう嫌いなのか問われると困るのですが、とにかく超有名なあの最初のメロディからして生理的にまるでダメで、この曲が流れたりしただけでオーディオを全てぶっ壊したくなります。

同じ作曲家が作る曲に対してこれだけ嗜好が左右される人って、私にとっては彼の他にはおりません。ま、彼の曲はとにかく耳あたりだけはいいですから、もしキチンと聴いたことがなければ一度聴いてみてください。ただし、一曲聴いただけでこの作曲家を判断しないように、聴くんなら複数の曲をよろしく。

  1. 2008/10/14(火) 22:32:16|
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こたろチームがつまらない

何だか最近、こたろチームのサッカーが全然面白くありません。ホント、まるっきり面白くない。1年前のチームには濃厚に感じ取られた「個人の成長」「チームの成長」が、このチームになってから微塵も感じられないからです。その原因は明白なんですけど、当事者がその重大性に気づいていないんで、このままじゃどもなりません。わたしゃ単なる一選手の親に過ぎませんが、この異常事態をこのまま放っておいていいものなのでしょうか?

つまらない理由は事細かにはいろいろとあります。でも、その原因を源流までさかのぼって追究していきますと、結局のところ「6年生へのエコヒイキ」ってところに集約されます。4月下旬に書き下ろした「今年は弱いぞ」っていうエントリーでも少し遠慮がちに述べましたが、こたろチームにいる4名の6年生って、はっきり言って全然上手くないんです。でも、今年のチームには「とにかくこの4名はAチームのレギュラーで使う」という不文律があるみたいで、その歪みが様々な実害、そして不平不満を生み出しているんです。

その不満はおかん連中の間で爆発しつつあります。おいらをはじめとする父親連中は、試合に行ってもこっそりフラストレーションをためるだけで、表面上は何も気づかないフリして能面みたいな顔でボーっとただ試合を眺めているだけなんですが(←アホ丸出し状態)、土日には弁当とか飲み物とか練習着とかユニ等々ひたすら子供のサッカーの準備に追われ、当番制の練習に対応し、それ以外にも事ある毎に”大会役員”という名目で駆り出される母親たちともなると、父親どもとは比較にもならないような多大な労働を課せられていることもあって、そう簡単には納得できないみたいなんですね。

「昨年この4人は満足に試合に出してもらえなかった。今年はかわいそうだから出してあげようよ。」

特に前から6年生を見ていたコーチの中にこういう発想があるからこんなことになってるらしいんですけど、スポーツに限らず、組織にこういう「一部の人たちだけに特別配慮する」みたいな思想を持ち込んで、その組織運営がうまく行くはずないッス。結果、おいらから見たってまるっきり機能しないと断定できるようなしょうもない選手選抜、しょうもないフォーメーションで公式戦を戦ったりしてるもんですから、毎回毎回練習や試合を見つめてきて各選手の特性も掴んじゃってる母親たちが納得できようはずもありません。

そりゃあね、おいらだって鬼じゃない。4人を試合に出してやりたいという気持ちは分かります。でもね、残念ながらそのような偏った考え方は今のチーム構成からみても、勝利を目指すというチームのスタンスから見ても、全く通用しないんですよ。

例えば今の5年生は20人もいます。そんな中、6年4人を無条件にレギュラーとするわけですから、必然的に5年生のうち10名以上が補欠となるわけです。言い換えると、この子達は今、満足に試合に出してもらえないわけです。では年が明けてこの10数名が6年生に上がったとき、今の6年4人と同じようにかわいそうだったからってレギュラーとして試合に出してもらえるのでしょうか。・・・・・・・・無理です。あり得ません。そりゃそうでしょ?同じ学年にこの子たちより上手い子たち(今のレギュラー)がいるんだもん。彼らは自分がレギュラークラス以上に上手くならない限り、その半数以上がずっと補欠のまんまなんですよ。んじゃ、その子たちはどうするの?かわいそうじゃないの?

というわけで、「今年だけは、それもこの4人だけは優先的にレギュラーとする。」今のこたろチームってそんな一部に偏向した温情的屁理屈が正当化される土壌にはないんですよ。どうしてもこの4人を出したけりゃ、勝敗を度外視した完全平等制(くじ引きか何かでレギュラーを決めるとかね)しかないっしょ。・・・結局、チームの連続性を鑑みると、不平不満のないチーム編成ってのは「完全実力本位(勝利追求)」か「完全平等(勝敗度外視)」かのいずれかで行うしかあり得ない。でしょ?そんなこたあ、おいらなんぞからわざわざ偉そうに説明されなくたって、誰だってわかることだと思うんですが。

本日のエントリーの冒頭、「この異常事態をこのまま放っておいていいものなのでしょうか?」なんて書きました。だからといって、わたしゃ別にコーチに直訴しようとか、そんなことで悩んでいるというわけではありません。昔どこかで書きましたが、コーチのやることに口を出さないという信念は変えません。何があろうとここだけは曲げない。それに・・・・・ま、ぶっちゃけ言ってしまえば、こういうヘボいことを実際にしちゃう人ってのは、ちょっと、あの、言いにくいけど・・×××な人ってことでしょ、要するに。そういう人にね、どんな正論ぶつけたところで・・・・結局無駄でしょ、実際のところ。

では何故こんなことを書いたかというと、子供がかわいそうだと思ったからです。

「今年前半は様々なポジションを経験させて各選手の可能性を試す。」
「後半になったらポジションを(ある程度)固定させて、最強の布陣で臨む。」

今年度の初頭、チームを編成していくあたって、コーチからはこんな方針が発表されました。前半はポジションの試行期間。だからこそあの口うるさい母親たちも不承不承、「これはポジションを試しているだけなんだ」ってムリクリに解釈して6年生へのエコヒイキにも目をつぶってきたんです。で、そんなことしてりゃ当たり前なんですけど、前半戦は散々な成績でした。それでも母親たちは「これは前半だけのことだ」と我慢してきたのです。

そして夏休みも終わり、いよいよ待ちに待った後半戦が始まりました。先月の9月、後半戦最初の大会は春にも同じ大会名称で行われた区の大会です。ここでこたろチームは・・・・・前半戦と同じことしてました。6年全員が無条件でレギュラー、極めつけのウスノロをFWやトップ下に配したりとなんだかよく分からないポジションの割り振り・・・・・その割には試合結果はそこそこだったんですが、そんなの当たり前なんです。春の大会で順位が低かったモンですから、2つあるリーグ戦の中で程度の低い方(”Bブロック”と呼ばれていました)に出場させられ、周りがとてつもなく弱かっただけのこと。実際、まるで覇気のないリーグ戦でして、試合に勝っても面白くも何ともない。

憤懣やるかたない空気が流れる中、先週末には今季最大の少年サッカー大会が始まりました。で、いざフタを開けてみると、なんで6年全員がレギュラー??なんでこの選手がこのポジション???・・・相変わらず同じことを繰り返しているんです。この大会って横浜の少年サッカーチームにとっては「高校球児にとっての夏の甲子園」みたいな大本命の大会なんですよ。それなのに・・・・・

「冗談じゃないわよ!」
「なんで○○がボランチなのよ!」
「サイドバックに××なんて置いたら、抜かれまくるに決まってるじゃない!」
「チームが全然機能してないじゃない!」

怒髪天を突く母親たち。辛らつ且つ過激な発言が現地で形成された母親サークルの中で飛び交ったようです。そして、その試合結果はというと、最下位間違い無しと言われていた超へなちょこ弱小チームと引き分け。同じ日に行われたもう一試合の方は当然のごとく敗戦。我が家ではその日の観戦には行かなかったんですけど、怒り狂う母親軍団からの実況連絡が逐一うちのおかんの携帯に入って、こちらは自宅にいながらまるで観戦に行っているような気分です。で、その日の夜、帰ってきたこたろに聞いたら「○○はボランチじゃないよ。トップ下だよ。」だって。ふぅ~。これまでずっとCBをやっていた○○がトップ下としての位置取りすらままならずにまるっきり機能していなかったってことがこの一事でも分かりますよね。(一応○○くんの名誉のために言っておきますけど、彼はCBならそこそこ機能しますデス。)

でもね、まあこれだけならまだ笑っていられました。だって・・・上に書いた話って第三者的には面白いでしょ?母親軍団がイライラしていく様子が、まるで目に浮かぶようじゃないですか。私はそれをとっかかりに、これを何とか心の中で笑い話として咀嚼しようと、懸命の努力を続けようとしていました。でも、ある事実を知ってそうも言っていられなくなったんです。

夜の公園で父親相手に練習するなど、5年もの間ずっとサッカーに打ち込んできたこたろの同級生がいるんですけど、これまで試合で涙など見せたことがないというその子が、弱小チームとの引き分け試合で始めて悔し涙を流したとか。どうやっても勝てそうなへなちょこチームにふがいなくも引き分けてしまった悔しさ。それもほとんど練習したこともない意味の分からんメンバー・フォーメーションで試合に臨まされて・・・・・おいおい、一部コーチのくだらねえ思惑のせいで、子供が傷ついてんじゃんかよ!

母親がどんなに騒ごうが、わたしゃ笑っていられます。そりゃ試合を見れば私だってフラストレーションはたまりますけど、どうにかこうにか我慢出来ます。後日談のネタとしては面白いですからね。「アホなことしてるよな」ってなんとか笑える。でもね、そのアホなことで子供を傷つけちゃやっぱアカンやろ。土日の度に練習に精を出し、子供なりに精一杯努力を重ねてきた集大成とも言える試合を、そんなアホ丸出しの恣意的なエコヒイキなんかで踏みにじっていいはずがない。う~む、どうしてくれようか・・・・・

今ちょっと、考え込んじゃってます。

(念のため言っておきますけど、わたしゃ決して、自分の子供が使われない嫉妬心などからこんなこと書いているわけじゃありませんよ。こたろ、とりあえず試合に出してもらってるし。そこんとこ、ご理解よろしく。)

  1. 2008/10/13(月) 21:30:37|
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ISの評価

まずは総論から。ISの必要性について、わたしゃ焦点距離別に3段階くらいに分けて考えてます。


(1)広角・標準(~50mm)

わたしゃ基本的に広角にISなんぞあってもしょうがないと思ってます。もちろん、あったらあったで使うこともあるのかもしれませんが、使ったとしても極めてまれだと思います。生憎、「手ブレは許せないけど被写体ブレは気にしない」などという偏屈な無神経さを持ち合わせちゃいないもんですからね。使いようがないんです。その”滅多にない”ケースに直面したら、大人しくストロボ炊けばいいだけだしね。こんなろくすっぽ使いもしないもののために、ISによるレンズ枚数増加で起こる画質劣化・高額化といった不利益を享受し続けるなど、全然見合わないと思っています。ぶっちゃけ、ISなんぞに期待するより、美しくて柔らかい光を演出するディフューザーを買った方がずっと賢いでっせ、旦那。

ま、ともかく、この評価は「広角で手ブレに泣くことなどまずない」という20年近くにわたる私の撮影の実態・経験から来たものですから、生半可な屁理屈で私を説得しようったって無駄です。正直、大枚はたいてISのついた標準Lズームなど購入して喜んでいる方々をみると、なんだか哀れに思っちゃいます。現実との乖離の激しい夢を見がちな少女じゃねえんだからさ。もっと現実に目を向けろよって感じ。


(2)中望遠(50~200mm)

焦点距離が中望遠域に入ってきますと、ISがあったら捨てなくてすんだ手ブレ画像、ISO感度を上げなくて済んだノイジーな画像が救済されるケースが少しずつ出てくるでしょう。一般論としてそれは少しだけそう思います。が、私個人の撮影実態・経験からは、やはり中望遠域で低いシャッタースピードを強いられるケースってほとんどないため、必要性を特に感じていないというのが正直なところです。ただ、この前あんた(ブログ読者の一人)が言ってたような幼稚園のお遊戯会とか子供のダンス発表会みたいなイベントがあり、なおかつ被写体ブレは気にしないっていう前提が立つなら、それなりに重宝するであろうことは想像に難くありません。ただ、このメリットが画質劣化・高額化に見合うかって言うと、広角・標準のように徹底して否定するほどでもありませんが、やはり個人的には見合わないと思っています。実際のところ、200mm単焦点ですら、ISが欲しいなどと思ったことは一度もありませんからね。

尚、おいらのEF70-200mmF4L ISはISのないタイプであるEF70-200mmF4Lから画質が向上したという理解不能な現象を確認したから購入したものであって、ISがあるから買ったんじゃありません。その画質がISなしのものと同等だったとしたら買ってませんし、もしこの焦点距離のズームを買う必要があるなら、ISなしの方を選んで買っていたと思います。IS付きの方に4万円もの差額を支払ったのは、ISなんぞに対してではなく、あくまでも画質向上に対してですからね。そこんとこ、お間違いのなきように。


(3)望遠(200mm超)

望遠も200mmを超えてくると、さすがにISをありがたく感じることが多くなります。サッカー撮影のときはそうでもないのですが、野球撮影をしていて特にそう感じました。

サッカーも野球も1/800秒のシャッタースピード優先で撮ってきましたが、選手の動きを追いかけているうちは、ISも片方向にしか効かない”モード2”。このときは、撮っている最中のファインダー像も、あるいは家に戻って撮影画像を直接確認しても、ISオン・オフの差を認識することなどまずできません。これが止まった人、特に野球ではセンターの後ろからバッターボックスを撮ることが定番化しているのですが、そういう撮影をする際は、覗き込んだファインダー像には大きな差が現れます。ISオフにしているとファインダー像がまさにプルプルと震えますんで「ISを切ってたら手ぶれ画像量産間違いなし」って感覚に襲われます。撮り終えた後の画像をみると、さすがに”手ブレ画像量産”ということになっていないことが確認できますが、ただ、ISを入れていないと僅かに手ブレを感じることがあり、「ああ、普段はISが働いてるんだな」ということを自覚させられたりします。1/800秒という早いSSであるにもかかわらずありがた味を感じちゃっているわけですから、やっぱ望遠にISってのは有用なんだろうなと思います。


結局、画質劣化を伴うIS(逆に画質の上がった70-200mmF4Lなんぞは例外として)ってのは焦点距離が200mmを超えるようなレンズにのみつけるべきだ、というのがぶっちゃけた感覚です。単焦点300mmはもちろんですが、エクステンダーをつけることで200mmを超える焦点距離も潜在的にカバーしている70-200mm(←ちょっとこじつけっぽいけど)、そして、買う買う言ってたのに最近全然その気配のない高倍率ズーム28-300mm・・・・・とまあ、おいらが手ブレ補正の有無を斟酌してレンズを購入して行く背景には、この終始一貫したブレのない姿勢があります。・・・・・どうだい?説明はこんなもんでいい?


・・・というわけで、今回のテーマは、ある一読者のために書いていたのでした。結局よく見りゃ、前から書き込んできた内容をなぞるだけに終わっちゃったけど、ま、そこにはあまり突っ込んでこないように。

ちなみに言っておくけど、ISレンズを手にしても、手ブレ補正機能を入れっぱなしにするよりは、これをオフにして撮影するってのがオシャレなんだよね。画質よくなるしね。特に、望遠使ってても足りないくらい遠くにある被写体を撮ってみると、この違いってよく分かるようになるよ。結局、人間って頭の中だけで考えているだけでは対処し切れないから、そんな不毛なことしてないで実際にISレンズを使って撮ってみたらいいよ。そうすりゃ、すぐわかるから。

  1. 2008/10/11(土) 20:48:32|
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5-2.休日の燃費

こんなの当たり前のことなんですが、休日の燃費はもう、それぞれの置かれている環境で全然変わってきます。東京のど真ん中に住んでいる人と地方都市在住の人、郊外の幹線道沿いに住んでいる人と山小屋に住む人とでは、燃費のベースが根本的に異なります。また、休日にはどこに行くのか、一回にどれくらいの距離を移動するのかによっても燃費は大きく振れてきます。とはいえ、私の運転の実態をお知らせするのに通勤燃費だけでは片手落ちになりますから、運転環境が異なるであろう皆様の参考にはあまりならないかもしれませんが、私の休日の燃費についても触れておきます。

私の住んでいるところは横浜市内の山の手です。周辺はアップダウンを伴った昔ながらの狭い道が多く、近くを走る幹線道路も本数自体が少なくて、休日でも結構混みます。いや、「結構混みます」どころか、鎌倉や箱根に抜ける神奈川県有数の渋滞ポイントが近所に2箇所もあるってこともあって、土日はどこに行っても渋滞ということになりがちです。もちろん地元だけに少しは抜け道を知っていることもありますから、こんな渋滞に思いっきりはまるような間抜けなことはしませんが、それでも渋滞を完全に回避することは不可能で、休日にはどこに行くにもある程度の渋滞は覚悟しなければなりません。

こんな状態ですが、近所へのチョイ乗りが多い休日の燃費は、平均すると9.0km/Lといったところです。エコ運転を心がけているというのに10km/Lを割り込むというのは正直屈辱的な気分なのですが、今のところチョイ乗りをしている限りはどうやってもこれ以上の記録が出せないでいます。

高速や自動車専用道路を走る頻度は低いのですが、たまに走ると燃費は大きく伸びます(これも当たり前のことなんですけど)。昨年社用で静岡方面に1日往復300km近く走った際には、高速道路上での燃費は17km/L近くにまで伸び、会社を基点とした全行程でも15.5km/Lになりました。燃費に関してよく使われている報告スタイルを踏襲するなら、「高速7割、市街地1割、郊外1割、渋滞1割で15.5km/L」って感じでしょうか。いくら高速利用が大半を占めているとはいえ、10・15モード燃費が12.2km/Lの車で大した記録だ・・・と自慢したいところですが、こんな記録、あんまり意味がないように思っています。

余談ですが、この静岡県往復以来、「高速道路を含む燃費の記録というのはいんちきだな」と思うようになってしまいました。まあ確かに高速でもアクセルワークひとつで燃費は多少上下したりもするんですけど、高速を走っている限りは基本的に高い燃費記録が出るわけです。実際、この前書きましたが、家族4人と相応の荷物を載せて速度を気にせずに行った高知往復ですら11.5km/Lなんですからね。おまけに高速道路って技術的にもほとんどアクセルワークだけに神経を集中すればいいわけですから、一般道で駆使するエコ運転の技術レベルとは比べ物にならないくらい楽で、それも一般道で培った技術を小出しにすればいいだけですから、あまり人様の参考になるようなポイントもありません。要するに、「これはおいらだからたたき出せた燃費記録だ!」という感じが全然しないのです。燃費改善ってのは、いみじくも通勤燃費のところで述べたように、同じ条件(同じ行程、同じ時間、同じ天候、同じ搭載荷物、同じ同乗者、同じ・・・)でどれだけガソリン消費量を減らすか、に尽きるわけですから、「高速なんか走って燃費がいいのは当たり前やんけ」と思ってしまうわけです。

ただ、数少ない高速の経験から、気づいた点がいくつかあります。

その一つは、「高速道路上の渋滞はさほど燃費は悪くない」という点です。止まりそうになったかと思うと少しだけ進み、またすぐに止まりそうになる。こうした高速特有の渋滞では、長時間止まったりしない限りは10km/Lくらいは軽く行きます。進まない代わりに、ガソリンだってほとんど消費しないからです。

こうした高速の渋滞には「アクセルもブレーキも極力踏まない」という精神で臨みます。特に減速には気を使い、車を絶対に止めない、ブレーキは死んでも踏まない、というくらいの覚悟で臨みます。また、アクセルは踏んでもアイドリングの3倍以内の燃料噴射量にとどめ、踏んでいる時間も極力短い時間となるよう神経を集中します。このアクセルの踏み方は、燃費計をご使用の方ならご理解いただけるかと存じますが、結構微妙で繊細です。そんなアクセルワークでなるべく車速を稼ぐ。距離を稼ぐ。こういう一見相反する条件をできる限り満足させることに精力を注ぎこむのです。そんな遊びに興じていると、渋滞が結構面白くなったりします。やむを得ず渋滞にはまってしまったら、退屈しのぎも兼ねて是非お試しください。

また、(ローカルな話題になって申し訳ありませんが)東名高速はあまり使わない私ですが、都内に行くのに第三京浜や横浜新道にはよく乗ります。もともと私は「有料道路というもののメリットは”移動時間の短縮”にある。コストを投入する価値はそこにある」と思っていたのですが、第三京浜あたりになりますと、トータルコスト的にもこれを利用した方がお得になるケースが結構あります。東名高速みたいに単価の高い道路だと無理でしょうけど、比較的通行料単価の低い道路は、これを利用した方が下の一般道を走るよりもガソリン代が安くあがる。その差額が通行料を上回ることがあるというわけです。第三京浜や横浜新道のように、下の一般道が混雑したり、信号がやたらと多かったりする道なら尚更です。ここで細かいことはいちいち述べませんが、混雑した一般道をネチネチ走るよりも通行料の安価な有料道路を使った方が、時間短縮はもちろん、トータル費用的にも安上がりになることがありますので、皆様、お近くの有料道路について一度研究してみてはいかがでしょうか。

  1. 2008/10/10(金) 23:47:37|
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心神喪失状態

ここ5年くらいの間に理解に苦しむ事件が頻発するようになりました。社会的に大きく取り上げられたものとしては、自分の子供を橋の欄干から突き落としたり、それだけでは飽き足らずに他人の子供にまで手をかけたり、一国の首相が所信表明演説のたった2日後に全てを放り出したり、夫を切り刻んで捨てたり、誰がみても圧敗である亀田に勝利の判定が出たり、餃子にメタミドホス入れたり、・・・つい最近では、事故米を流通させたり、大相撲に八百長はないと真顔で言うじじいがいたり、一国の首相が何の理由もなく政権を放り出したり(一応アベちゃんは病気とかを理由にしてたけど、こいつに至っては・・・)、自分の子供に手をかけておいて携帯のGPS機能を使って探すフリしたり、5D後継機が2000万画素を越えたり、個室ビデオ店で自殺の名目で放火しておいて自分は逃げ出したり、一国の首相が所信を表明できなかったり、代わりに野党党首が所信表明したり・・・・といろいろありますが、その中でも、やはり未だにどうしても理解できないのは「自分の子供を殺す」というものです。そして、もう一つ理解に苦しむことがあります。それは量刑のあり方、即ち、殺人という行為を行う間に心神喪失状態だったとかいう理由で、これが無罪になっちゃったりするところです。

まずは後者について触れていきますけど、例えば今、私が突然心神喪失状態に陥ったとします。その心神喪失状態の私っていったいどんな行動をとるのでしょうか。

いきなり動物にかえって、訳の分からない”人間”という生き物に囲まれている環境に驚き、怯え、泣き叫ぶのでしょうか。加工食品などは食品として認識できずに腹がへって耐え切れなくなり、自然の食を求めて発狂したかのように駆けずり回ったりするのでしょうか。その間、糞尿を平気で垂れ流したりするのでしょうか。

きっと違いますよね。そんなことはない。人間として暮らしてきたそれまでの生活だけはきちっと踏まえている。心神喪失状態だろうが何だろうが、あくまでも人間として生活してきた基本部分はそのままなんです。そしてそうした生活の蓄積を踏まえた上で、潜在意識に基づいた自分の意思ではコントロールの出来ない衝動的行動をとる。そういうことでしょ?

こうした心神喪失状態の人間が実際に引き起こす行動ってのは、星の数ほどもあるその人が持っている潜在意識の中でも最も強烈に自分を支配している意識に基づくものってことになるでしょう。自分の意識とは全く関係のない思いも寄らぬ行動に出るなんてことはない。その証拠に、心神喪失状態に陥った人が自分が本当に大切だと思っている相手、例えば心の底から愛し合っている異性を殺すなんてこと、聞いたことがないもん。殺す相手は必ずそいつにとって何らかの不都合のある人だし、普段の生活の中でそこにはなんらかの”殺意”めいたものが比較的簡単に認定されるわけです。その”殺意”だって強烈であるからこそ心神喪失状態になって表に出てきたわけでしょ?となりますと、心神喪失状態で引き起こした殺人事件だって、百歩譲って人を死に至らしめた”行為”そのものについては責任能力はないのかもしれませんけど、そういう社会的に通用しない”潜在意識”を持つに至っちゃった自分のねじくれた性格に対する”責任”ってものがあると思うんですよ。上で言うところの”人間として生活してきた基本部分”ってやつね。そこで形成された潜在意識がこの事件を引き起こしたわけなんですから、そこんところを問題にしなくていいのか、と。

日本の法規制って、やったかやらないかで裁かれる。どんなにデタラメなことを考えていたとしても、それを行動に移さない限りは決して裁かれない。いくら頭の中で世界全人類を死滅させる方法を考えてたとしても、それを行動に移さない限りは罪にならない。それが原理原則でしょう。どんな理由があれ、やったら有罪。その後、その背景にある事情がどうだとかこうだとかで情状酌量の余地ってのが出てきて罪が減刑されたりする。違うの?

違うんでしょうね。その上位概念として”責任能力”ってのがあるんでしょう。”情状酌量の余地”ってのを検討する段階じゃなくて、有罪か無罪かという最初の段階でいきなりこの概念が適用される。だから周りの状況がどうあれ、その瞬間の行為に責任能力がなければとにかく無罪。そういうことなんでしょう。でもこれ、おかしくね?

んじゃ、例えばぶち切れて訳わかんなくなったら、何をしても無罪なの?それならおいら、ぶち切れたら意識をなくす訓練しますよ。わたしゃ何度か軽く切れたことありますけど、ぶっちゃけ、切れたところで意識はある。切れたときでも、その裏ではいつも必死で自分の意識を認識しようとしている自分がいます。言い換えると、意識をギリギリでコントロールしながら切れているわけです。これ、みんなそうなんじゃないの?そして、そのコントロールをハナから放棄したとき、自分の行為を徹底的に衝動的感情に任せきったとき、きっと自分は意識を失くした状態になっちゃうだろうなっていう感じがない?なんだかおっかないから、とてもじゃないけどそこまで踏み切れないんだけど、自分に対して私はそういう感じが濃厚にあるんですけど。これまた言い換えると、こういう「自分の意識を自分のコントロール下から開放する」のって、訓練すれば何とかなるんじゃないかと思うんですよ。勇気を持って感情を開放する。後先をまるっきり気にしない。そういう訓練。人の来ない河川敷かどこかでやってみようかな~、なんてね。

で、本当にムカつくことが起こったとき、本気でぶち切れる。何が起こっても知~らないっと。あとで責められてもこう言いますよ。

「しょうがねえじゃん、訳わかんなくなっちゃったんだから。その瞬間、完璧に心神喪失状態だったモン。責任能力なかったモン。無罪でしょ。」

ウソはついてませんよ。実際本当に意識なかったんだし。

てなことになったとき、こりゃあもう確信犯でしょ?そんな妙ちきりんな訓練までしちゃってんだし。でもそれは、”行為を犯したときの責任能力”っていう上位の段階で不問とされる。自然に起こったものだろうが訓練によるものだろうが、心神喪失状態であることに変わりはないんだから、責任能力はないと認定されて無罪。理屈からするとそうなると思うんですけど、やっぱどう考えても、こんなのおかしくね?

やはり犯罪行為というのは、まずはやったかやらないかで有罪無罪を判定すべきだと思う。そして有罪ってことを踏まえた上で、その量刑を決める際に計画性があったとかなかったとか、どうせ有罪無罪の決定には資することのない「日ごろから思ってたかどうか」「そう思うに至る事情があったかどうか」なんていう過去の蓄積にまで踏み込んで情状酌量の余地ってものを突き詰めて行くわけだから、その段階で心神喪失状態ってのを持ち出せばいい。”心神喪失状態”なんてのはそんなもん、そういうレベルのものとして扱うべきだと思うんですけど、なんでダメなんだろ?

セレブ妻バラバラ公判とかいう妙なタイトルをマスコミから付与されたあの裁判。一審の判決は懲役15年だそうですけど、一時は「無罪かも」なんてことが言われたりもしておりました。夫を殺害し切り刻んでおいて、無罪かもしれないだと?バカも休み休み言えっての。近所の人に「夫は弁護士」とかすぐにばれるようなウソをついてしまうくらい度を越した虚栄心・中身のないプライド、・・・離婚だ何だと夫を責め派手に騒ぎ立てる一方で、自分は他の男に身体を開いて省みないという自分本位の利己的倫理観、・・・・・ある意味、その事件を引き起こした主因といえるかもしれない被告のその醜悪な性格が、その瞬間の意識のありなしだけで全部不問になっていいはずないだろ!

これまたちょいと前の話になりますが、光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審では、広島高裁が被告に対して死刑を言い渡しました。その判決文を読んで胸のすく思いがしたのは私だけでしょうか。よくやった、楢崎康英裁判長!わたしゃこの裁判の過程で、弁護団が被告と共謀してこれまでの供述を翻し、なんとかこの”心神喪失状態”に持ち込もうとドラえもんだの生還の儀式だのとなりふり構わずくだらねえことをグチャグチャ言っているニュースに触れるたびに、ご遺族の無念・怒りたるやいかばかりかとやりきれない思いを抱いておりました。1、2審とも無期懲役。それが最高裁での差し戻しを経て、ようやくまともな判決が出たのです。日本の司法も捨てたモンじゃねえ!この判決を受けて、チン毛ソックリの縮れ白髪の弁護士が「判決は不当だ」とか「上告だ」とか言ってましたが、もういい加減にしたらどう?君の仕事は被告人の弁護なんであって、”心神喪失状態”の捏造じゃあねえだろ?

冒頭に戻って、自分の子供を殺すなんてのは、もう全然あり得ないことです。有罪とか無罪とかいう以前の問題。こんなの、動物以下でしょう。たとえそこに心神喪失状態があったとしたって、その背景となる潜在意識の中に”殺人につながるだけの意識”があるからこそそんな行動に出たわけでしょ?その意識って、いったいどうやって醸成されたの?小学生の自分の子供に殺意を抱くなんて、普通は絶対あり得ねえっての。結局、突き詰めていけば全部超利己的で自分だけに立脚したわがままから引き起こした事件でしょ?そんなの、情状酌量の余地だってカケラもないッスよ。いや、たとえ心神喪失状態による情状酌量の余地を認めたとしても、”死刑100回”って量刑が”死刑99.9回”に減刑されるくらいなもので、そいつの仕出かした元の罪ってそれくらい重いと思うんですよ。たとえどんな辛い状況にあったとしたって、まだ幼い自分の子供に殺意を抱くなんてありえない。もし本当に何らかの異常な環境の結果、その殺意が芽生えたのであるならば、そんな殺意を感じる前に自分を責めて、自分が死ねばいい。それだけのことだもん。

自分の子供ばかりか他人の子供にまで手にかけたあのでたらめな女。裁判所で相手の親に土下座してみたり、もうあんなの、全部自分が助かるためのパフォーマンスだって言いきれるんちゃう?だって、自分の子供を殺してんだよ。百歩譲って、例えそれが本当に心神喪失状態で引き起こしてしまった行為だったとしてもだ。正気を取り戻して自分がやったと認識した瞬間、おいらなら気が狂うか自ら命を断つかすると思うよ。だって、自分で自分の子供に手をかけちゃったんだよ。それを自覚しちゃったんだよ。正気でいられるはずがないじゃんかよ。それなのに、あの女はシレッと裁判受けてやがる。そればかりか、自分の子供に対して殺意がなかったことが認定されなければ控訴だとか騒いでいやがる。だいたい、”自分の子供に手をかけた”という決定的な事実と比べてあまりに軽くてどうでもいいようなそんな屁理屈に執着していること自体、おいら的にはあり得んことだわ。そんな女に無期懲役を言い渡した裁判官、人間であることを放棄しちゃってない?いわゆる専門バカってやつ。細部にこだわる前に大局を見ろっての。

・・・って、もう止めよっと。久々にマジになって疲れちゃったッス。ごめんよ。もうしません。

  1. 2008/10/09(木) 22:07:24|
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春の祭典

ストラヴィンスキーのバレエ音楽”春の祭典”。この曲はクラシック音楽の中でも最も好きな曲の一つで、この”ハルサイ”に加えて、”ペトルーシュカ”、”火の鳥”の3曲はストラヴィンスキーバレエ三部作と呼ばれております。私は高校時代にハルサイにはまり、スコアを買い込んで穴が開くほど眺めながら、様々な演奏を聴き比べたりしておりました。

曲はファゴットの通常の演奏音域を越えた超高音で始まります。「ん?」ってな不思議な気持ちで聴き続けてると、とにかくこの曲、不協和音バリバリな上に1小節毎にリズムが替わったりする。はじめは正直「なんじゃこりゃ!?」と思いました。が、そこには私をひきつける何かがあった。気になって気になってしょうがなくなった。その欲求に抗しきれないまま繰り返し聴いているうちに、いつのまにやら中毒と化していったのです。

その後、プロオケのプログラムにこの曲を見つける度にチケットを購入しては聴きに行っていた時期がありました。N響、東響、東フィル、新日フィル・・・・当時は学生チケってのが安く出されていたもんですからね(今でもそうなのかもしれませんが、最近はプロオケ演奏会にご無沙汰なんでよく分からないっス)。聴いてみるとやっぱ生演奏はいい。他の曲だとよくやっていた「そのオケがうまいだの下手だのというアラ捜し」よりも、ハルサイの場合は純粋に生の音、生の迫力を楽しんだものでした。

ハルサイは今でもたまに我がMPVの車内で流れます。片道1時間半近くかかる長旅の間に2種類の演奏が聴けますから、往復で4種類。1日中ハルサイにおぼれた日もありますし、たまにはそこに”ペトルーシュカ”や”バイオリン協奏曲”などもはさんだりして、ストラヴィンスキー三昧の日々を送ったりもしてきました。(ただ”火の鳥”だけはつまらないのでほとんど聴かないんですけどね。)また、ハルサイに限らず、車内にクラシックを流すときはとんでもねえ大音量に設定しますんで、オーケストラのフルパワーが大爆発するようなところでは、1.7トンもあるあの重量級MPVの車体が文字通りビリビリと震えるほどです。この醍醐味を味わうためにMPVにはBOSEのスピーカーシステムを積んでるわけですし、「音はフォレスターよりMPVの方がずっといいよな」、「クラシックを楽しむなら車重のある車に限る」なんて妙な感想を持ったりもしながら自己満足してるわけです。

ま、この”春の祭典”、もし聴いたことがなけりゃ一度聴いてみてください。”ペトルーシュカ”とカップリングされているブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団の新盤(といっても、相当古いけど)あたりがお勧めです。

  1. 2008/10/08(水) 21:22:51|
  2. クラシック音楽
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5-1.通勤燃費

2008年秋現在、私は自宅から片道35~40kmの距離にある会社まで車通勤をしています。通勤に使っている車は結構大きなミニバンMPV(車重1.7トン)で、その10・15モード燃費は12.2km/L。この車の燃費計測したモデルよりも更に50kg程度の装備を余計に追加しているので、実際の当該燃費は12.0km/L前後なのではないかと思われます。

自宅は海抜20m程度の平地にあり、途中、標高70mの小さな丘を越えたり海沿いの0m地帯を走りぬけたりしながら、最後は標高150mくらいの山の中にある会社へと通っています。その間のアップダウンは無数にあり、燃費向上に向けたトライアルをする環境には事欠きません。通勤にかかる時間は、市街地にて信号を何度か待つ羽目となる渋滞が合計で20分程度、グニャグニャとしたアップダウンのある山道の15分をも含めて片道1時間20分くらいですから、通勤の平均時速は25km/h強ということになります。(平均するとその程度の混雑具合ということです。また、これらはいずれも往路の記録で、復路はこれより5~10分程度速くなります。)

そして、これはもうホントにたまたまなんですが、私と同じ車種の車(MPV 23CSP 2007)でほぼ同じ区間を通勤している同僚がおります。彼の通勤にかける時間は私とほぼ同じですが、彼の方はエコ運転を特段意識してはおりません。彼は特に飛ばすタイプでもなく運転はむしろ丁寧な方で、エンブレは使わずにフットブレーキで止まるというごく普通の運転法。車のメンテナンスも人よりこまめにやっておりますし、少なくともこの車なりの普通の燃費(あるいは普通よりも少しいいくらいの燃費)で走っているものと考えていいと思います。

そんな彼との燃費の比較になりますが、彼が通勤で記録する燃費は、エアコンを使う夏冬こそ7.0km/Lを切ったりするようですが、燃費も伸びる春秋にはこれが9.0km/Lになり、平均すると8.0km/Lちょっとくらいで走っているそうです。この値はネットで報告されているこの車の燃費の平均的な数値とほぼ合致しますし、実際、比較的長距離でありながら渋滞あり山道ありの通勤経路ですから、まあぶっちゃけこんなものでしょう。

これに対して私の方は、MPVを購入し、慣らし運転を終えた秋には11km/L台の後半を確実にキープ。12.0km/Lを越えることも度々経験しました。が、燃費の悪い冬に突入すると11.0km/Lを切りはじめ、本当に寒い日にはこれが10.0km/L近くまで落ち込んだりもしました。そして春、特に暖かい日が続いた今春、燃費は格段に向上して、昨秋と同等以上の成績を収められるようになりました。そしてエアコンをガンガン使う夏場、燃費は再び10.0km/Lくらいまで落ち込み、今また燃費はググ~ッと改善して12.0km/Lを越える季節を堪能しているところです。このように、燃費は季節によって大きな変動を遂げてきたわけですが、我が通勤燃費を一年を通じて平均してみれば、おそらく11.0km/L程度に落ち着くのではないかと思われます。

この記録を同僚の燃費と比較してみますと、”通勤”に限定した彼我の燃費の差はおよそ3.0km/L。これは同じ経路を同じ時間だけかけて走ってのガソリン消費量の差異ですから(車の個体差も多少はあるかもしれませんが、ここでは無視します)、これまで述べてきたエコ運転法の成果以外の何ものでもありません。その差は定量的に通勤一往復で2.56L、ガソリン代に換算するとリッター155円として400円程度となります。休暇や出張を抜きにして年間200日の車通勤をしたと仮定すると、それだけで年間8万円の違いが生じているわけです。

と申しましても、実は私、年がら年中エコ運転をしているというわけではありません。毎日毎日デリケートなアクセルワークに頻繁なギアシフト、更にはフットブレーキを極力踏まないという神経質な運転を続けておりますと、徐々にではありますがどうしてもストレスがたまってきます。通勤経路には比較的スピードを出すことが可能な郊外の直線路もあれば、ボディ剛性の味わいを楽しむことのできる山道もある。そんな環境にいて、私自身、エコ運転を生涯貫き通すほどの強靭な精神力を持っているわけでもありません。

よって、大まかに言って月に2.5回の給油をする私は、2~3ヶ月に一回(給油5~6回に一回)の給油間だけはエコ運転をお休みにして、エンジンを気の済むまで回してやることにしています。これはMPVの前に乗っていた車フォレスターでも同様で、そこで”お気楽通勤”や”なんちゃって爆走通勤”などの様々な運転法を楽しみながら、それを機会に気になっていた運転のデータを取れるだけとって、次回以降にフィードバックしております。

”お気楽通勤”というのは、発進時にクリープ現象を確認してからアクセルをジワッと踏み出したり、「定速走行時にガソリン噴射量を一定化する」などといった神経を使う作業を全て放棄して、「周りの車と挙動を同一にするお気楽な運転をする」という意味ですが、減速時のシフトダウンだけは完全に習慣化しておりますから、これだけは無意識のうちに行っています。その結果、普通に運転しても10.0km/L以上の記録が出て、同じ距離を丁寧な運転で通勤する同僚よりも燃費はよくなります。このときの通勤時間は同僚よりも早い1時間15分程度に縮まってきますが、燃費面ではこちらの方がまだ上回っているわけです。この事実は、基本の項でも述べてきた「ガソリンを節約する上で”減速”が最重要」ということの傍証になるかと思います。

爆走通勤組との覇権争いとなる”なんちゃって爆走通勤”ともなりますと、通勤時間は更に短くなって1時間10分くらいになります(相当飛ばしますので、実質的には、これ以上通勤時間を切り詰めるのは困難です)。このときの燃費が8.5km/L程度。ここでようやく燃費の差は同僚と同等近くにまで縮まります。

さて、これだけをみても、私が無意識のうちにやっている減速時のシフトダウンだけでもいかに重要かがよく分かりますが、それよりも何よりも、一旦エコ運転を習得し癖になってしまえば、その後は何にも気にしなくても燃費は格段によくなっているというこの事実。これはなかなか含蓄のある出来事でしょう。

また、この通勤(往路)に要する”時間”に着目してみると、エコ運転で1時間20分、普通に運転して1時間15分、ぶっ飛ばしても1時間10分がいいとこなんですよ。追い越し自在の郊外も含めてこれだけの長距離を走るんだからもう少し差がついてもよさそうなものですが、実態はこんなもんです。どんなに急いだところで、たったこれくらいの差しか出ない。これを定量的に認知してしまうと、少しでも前に行きたくてたった一台を追い抜くのにムキになって急加速・急減速を繰り返す欲求不満の塊みたいな輩が”果てしない阿呆”に見えてきます。こういうやつ、どこにでもいるでしょ?”なんちゃって爆走通勤”時には自分もその傾向があるので、あまり偉そうなことも言えないんですけど、こういうことするやつって大概、見るからに頭悪そうな顔してますよね。

エコ運転、身に着けておいて損はないと思います。

  1. 2008/10/07(火) 22:10:37|
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5.私のエコ運転の実態

まだ第4章の「エコ運転の真髄(?)」について、たったの1項目「信号通過」しかご紹介しておりません。もともと第4章では、信号以外にも「山道」「高速道路」「渋滞」等について偉そうな屁理屈をこねまくる予定をしていたんですが、実はここんとこそれぞれの項目について新たな試みをしていたり新たな知見が得られそうになってたりします。よって、その結論を待ってもいいんですけど、あまり間を空けるのも興ざめですから(散々休んでおいて何を言ってんだか)、第4章の残りの部分は私の崇高なる理論が更に進化するのを待ち、後から勿体ぶって触れるということに勝手にさせていただきまして、ここはもうとっとと最終章である第5章に突入したいと思います。

さて、これまで偉そうな顔して燃費に関する屁理屈をこれ見よがしに述べてまいりましたが、私が実際にどれくらいの燃費で走っているのか、気になる方もいらっしゃるかもしれません。

「偉そうなことばかり書きやがって!」
「さぞやいい燃費で走ってるんだろうな、おい!」

皆様の手厳しいご意見(↑ホントにこういうメールを送ってきやがる昔からいけ好かない大バカ野郎(?)もいたりします)に耳が痛くなりそうなので触れたくない思いがするのですが、隠しておくのも何だか卑怯な気がしますので、私の燃費についてここで正直に白状します。まずは言い訳しておきますが、これを読んでいただければお分かりになるでしょうけど、私自身、エコ運転を極めたわけでも何でもありません。まだまだ燃費改善の余地は残っておりますし、更に燃費をよくすべく、今皆様がこれをお読みになっていただいているこの瞬間にも、おそらくずっと燃費計とにらめっこしている状態にあるでしょう。試行錯誤の連続。記録はともかくとして、燃費向上への意欲だけは人一倍あると勝手に思っておりますんで、へなちょこな記録だと思っても責めないでください。(^o^;)

  1. 2008/10/07(火) 21:27:48|
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ゆたろ運動会撮影

以前、こたろ小学校の春の運動会のことを書いたとき、「一般的に言って、運動会の撮影には70-200mmよりも100-300mmくらいのズームの方が向いていると言われている」んだけど、「一概に100-300mmの方が絶対にいいと決め付けられるほどのものでもありません」ってことで70-200mmを擁護し、「70-200mmもエクステンダーを装着すれば焦点距離的には100-300mmとほとんど同等になります」ってことをその理由に掲げておりました。

そして先週末、ゆたろ運動会を撮影してきました。持参したレンズは、こたろ運動会での教訓を生かして70-200mm一本だけ。ただ、超ド阿呆なことにエクステンダーを忘れて行っちゃいまして、運動会の最初から最後まで、文字通り70-200mm一本こっきりで撮影したわけです。

で、結論から申し上げますと、やっぱ長さが足りません。中学生ともなると被写体がでかい分、短いレンズでいいように思ってましたけど、小学校よりもずっと校庭が広いってことを考えに入れておりませんでした。で、実際には小学校で撮影する以上に長さが足りないという哀れな結果に甘んじざるを得なくなったわけです。

短いレンズだと人ごみにまぎれて撮らざるを得ませんし、目の前に大阪のおばさんみたいなのが割り込んできたりなんかもして、撮る角度もすごく制限されたりします。結局、中学校の運動会くらいになれば、70-200mmとエクステンダー(あるいは思い切って300mmとエクステンダー)、そしてミニ脚立を一緒に持参して、人ごみの後ろに脚立をセットし、高いところからわが子に狙いを定めて撮る。これが最もいい方法だと学び直した次第です。

短いですけど、本日はここまで。

  1. 2008/10/04(土) 12:21:12|
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太王四神記

NHK総合で半年かけて放映されておりました太王四神記。皆様、見てましたか?ご覧いただければ誰でも分かるかと存じますが、これ、朝鮮半島の歴史にろくな知識を持っていない私のような平凡な日本人にとっては最初から見ないとお話しにもならない、途中から見たって絶対に分からないという”20世紀少年”的な物語です。

主演は皆様ご存知のペ・ヨンジュン。わたしゃこの人に対しては別に何の感情も持ち合わせちゃいないのですが、こいつ目当てに騒ぎまくるおばさん、いや、ちょいと下品な言葉を使わせていただけるなら、韓流だ何だと意味もなく騒ぐくそババアどもには辟易としておりました。

「図に乗ってんじゃねえぞ、こら!」
「いい年こいて生ぐせえんだよ!」

TV画面に向かってこういうお下劣な言葉を常日頃から韓流ババアどもに投げかけていたのでした。

限りなく気の弱い私がこういう強い態度に出てるわけですから、もちろんその背景には、うちのおかんが普段から「韓流には興味がない」と断言していたという事実があります。おかんが好むことを真正面から批判するなどという恐ろしいことを、気の弱い私が出来るはずもない。そんなことをしたら最後、大げさではなく、我が身の危険を・・・・・ま、ともかく、そういう背景があったにせよ、私は必要以上とも思える執念深さを持って、繰り返し繰り返し声を大にして韓流ババア罵倒を続け、ナニゲに家族の潜在意識の中へと韓流ババア撲滅意識をすり込んでいったのです。

ではいったい何故、このような一見意味のなさそうな反復運動を私は展開してきたのでしょうか。

勘のいい皆様ならもうお分かりでしょう。そうです。うちのおかんはいつの日か必ず韓流ババアへと転身すると思っていたからです。

お前はその辺にいる韓流ババアなどとは一味違う。回りに流されない自分を持っているしっかりとした人間だ。・・・根っからのミーハー(表現、古!)であることを見抜いていながら、こうした雰囲気を無理にでもかもし出しつつ、彼女の「私は他の人と違うのよ。」「あんな連中と一緒にしないで頂戴!」といった優越感に基づく自意識を少しずつ覚醒させていく。私は長い年月をかけて、この作業に熱中して参りました。本人も他人からこういう目で見られることがうれしいタイプなので、その自尊心をくすぐりつつも、一貫して韓流ババア罵倒の態度を崩しはしませんでした。そして、このような地道な草の根運動を展開してきた結果、「私、やっぱり韓流が好き」などとはとても言い出せない状況を家庭内に作り上げてきたのです。

その後、NHKで太王四神記が始まりました。韓流など興味はないと公言しつつも、日ごろから友人の韓流ババアどもから十分な刺激を受けているおかんは、禁断の(?)韓流ドラマ「太王四神記」を見始めちゃいました。その言い訳として「歴史に興味がある」とかなんとかもっともらしいことを抜かしておりましたが、とにかくこのペ・ヨンジュン主演のドラマに足を踏み入れちゃったんです。

あとはもう簡単です。我が家に2冊、3冊と増えて行く韓流ドラマの解説本を見れば、彼女のはまりっぷりが知れようというもの。おかんは今も尚、「私は歴史ものが好きなだけ。」「ペ・ヨンジュンが好きなわけではない。」「冬ソナなんかは嫌いだもん。」などと強がってみてはおりますが、こんなのがでたらめであることはもはや自明です。ただ単に冬ソナを見たことがないってだけで、一旦見ちゃえばドップリとはまる体質であることはとうの昔に見抜ききっておりますし、それを知りながら、「ああそうかい」と同意してやる大人の余裕を見せつけつつ、誰が見ても明らかな自己矛盾に顔を歪めながらそれを正すことも出来ないおかんを横目でちらちらと眺めながら、思う存分韓流ババアの罵倒を続ける私。ああ、楽しい!幸せじゃ!

・・・・って、もういいっての!そんなことが言いたいんじゃありません。

私自身もこの太王四神記ってやつ、この前通して見てみたんですよ。我が家のHDDレコーダーに太王四神記全24話が収納されていて、個人的には邪魔くさくって仕方がないんですけど、あれほどうちの韓流バ・・・もとい、おかんを夢中にさせる魅力って何なんだろうと思い、消す前に自分でも見てみようと、HDDレコーダーのスイッチを入れてみたんです。すると・・・・・

「こ、・・・これは・・・・・」

衝撃でした。まるで”ゲキレンジャー”や”ドラゴンボール”のようなんです。

ゲキレンジャーの”激気”や”臨気”みたいな、生身の人間じゃあり得ない力をもった登場人物たち。ゲキレンジャーの”激臨の大乱”みたいな、過去の神話を絡めたストーリー展開。ドラゴンボールのように、主人公や敵方を持ち上げては落とし、落としては持ち上げるという古典的手法。CGとかべらぼうな技術を投入した割には「道路にタイヤの跡が残ってるぞ」「落ち葉の落ち方が超不自然だぞ」「雨の降る角度が画面切り替わるたびに違うぞ」などと簡単に突っ込みを入れられちゃうような、ちょっと間の抜けた演出。一見すると贅の限りを尽くしたように見えますが、ちょこちょことボロが出ちゃっているまるっきりゲキレンジャーっぽい作り話。そんな感じなんです。・・・って、別に貶してる訳じゃありませんよ。ご存知の通り、わたしゃ、ゲキレンジャー好きですし。素直に好感が持てたってことが言いたいだけです。

この中で、わたしゃ第三近衛隊隊長のカクタン(という名前だったっけ?)が好きでした。「好きでした」と過去形で書いたのは、この娘、2つくらいの小ストーリーに登場してすぐに死んじゃうからなんですけどね。ここから先は見てない人には分からないでしょうが、ま、分からなくても全然よろしい。とにかく、この娘が敵と戦って深手を負いながら、健気なまでに自分の使命を果たそうと王の遺言を命懸けで太子役のペ・ヨンジュンの野郎に伝えたというのに、あろうことかこのペ・ヨンジュンとかいう下衆野郎は、報告が終わるや力尽きかけて崩れ落ちたこの娘に「誰に頼まれてそんなウソを言うんだ!」みたいな罵声を浴びせて剣を突きつけやがったんですよ。それでもこの娘は剣を突きつけられたまま、苦しそうに「私はお伝えすべきは全てお伝えいたしました。」とだけ言い残し、静かに目を閉じたんです。

「てめえ、ペ・ヨンジュン!お前って野郎は人間の心をもってんのか!かかってこいや~!」

目に涙をためて、TVの前で思わずこのド腐れ野郎を罵倒した私の怒りが、皆様にご理解いただけますでしょうか。これで見事、ペ・ヨンジュンが大っ嫌いになりました。あいつの普段の笑顔など、人気を得るための偽りのもの以外の何者でもない。韓流ババアの目はごまかせても、おいらの目はごまかせねえぞ。お前の本性、見切ったからな!

・・・・・というわけで、あわれ、韓流ドラマにのめりこんでしまったメタボオヤジがここに誕生したのでした。(ちなみに、巷で人気爆発のスジニはかわいいにはかわいいけど(特に後半)、根がメチャ生意気そうなんでおいらはパスします。)

もしこの説明で太王四神記が見たくなった人は(そんなやつはいないと思いますが)、カットありの日本語吹き替え版ではありますけど、DVDフルセット全24話を貸してあげますからメールください。

んじゃ。

  1. 2008/10/02(木) 21:25:41|
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