ま、適当に

思いつきで書くよ

胃がん検診

これって実はおいら的には結構意味深いテーマなんだよね。ってことで、今回はあんた相手だけじゃなくて、なるべく他の方にも分かるように気をつけながらここに書いていきまする。

おいらは毎年春になると会社でやってくれる健康診断を受診するんですけど、数年前からあのバリウムを飲んで行う検査「胃がん検診」ってやつを受けておりません。なぜ受けないかっつーと、無意味だと断じているからです。

そう考える理由をザックリと申し上げますが、この検診で見つかって切除して助かるがんってのは、もしそいつを見つけられなくて放置したところで死にはしないと考えている。言い換えるなら、検診で見つかるようながんは、放っておいたとしても何も起こらない。そのようなものを見つけようとする胃がん検診など、被曝はもちろん、手術する時間とお金の無駄であり、心配する分、気分的にも損するってことッス。

これは何も「突然神の啓示があってそう思うようになった」などというわけでは決してなく、様々なデータに当たってちゃんと科学的に考察を加えた結果、そう考えるようになりました。

同じ理屈が乳がんの検診法であるマンモグラフィーにも言えます。胃がん検診同様、おいらったら「ありゃ無駄である」と断じておりますので、おかんにもその旨説明しました。おかんはその説明をあっさりと理解し、前々回くらいから受けちゃおりません。(受診料は無料なのにね。彼女の場合は単に面倒くさいだけなのかもしれませんけど。)

マンモを無意味だと断じたのは比較的最近のことで、データがとっても分かりやすいので少しだけ詳しく書きますが、カナダだかどこかで数万人のマンモグラフィー健診群と数万人の非健診群とを比較した研究があって、その結果として健診しても年齢調整死亡率は全く減らない(差がない)ってことが分かったからです。(それどころか、死亡率は健診した群の方が逆に少し高かったくらいです。←これは誤差範囲であって統計的には無意味なので、あくまでも余談だけどね。)以上です。他に言うことはありません。

話を胃がん検診へと戻しましょう。

「検診によって胃がん死亡率は減っている。これは検診の成果である。」

検診推進派の医師はこう言います。でもね、皆さん、こういうことを言う人って、医師としてどうだかは知りませんが、科学者としては三流です。その検診が有効だというデータが、つーか、そのデータの解釈がデタラメだからです。

そのデータを見ますとね、胃がん検診によって胃がん死亡率は50%近く減っています。ナナント、検診すれば死亡率は半分に減るんです。半減ですよ、半減。すごくないですか?議論の余地なし。問答無用に検診はするべき。このデータを見れば、そう言いたくなるのも分かりますよね。

でもね、そのデータって、偽陽性と偽陰性の確率も合わせて50%くらい(だったっけ?)あることが分かっています。どういうことかっつーと、そのデータの半分は間違っている。そういうことです。さあみなさん、これをどう解釈すればいいのでしょうか?

こんなクソデータ、海外では全く相手にされていません。胃がん検診ってやつに本当に効果があるなら、それこそ世界中でやられているはずでしょ?特に米国なんかでは絶対です。それなのに、現実的には一切やられていない。こんなしょうもないデータにしがみついて胃がん検診なんてものを本当に導入しちゃっているのは、悲しいかな日本だけです。これについておいらみたいなチンピラがどんな説明をするよりも、推進派の医師がどう弁明するよりも、この海外の反応が全てを物語っている。そう思いませんか?

こんなデータ、エビデンスとしては何の意味もありません。余りにもデータの信頼性に欠けるからです。そして、そんなデータにしがみついて実施されている検査に意味があるとは思われません。つーか、そもそもこういうインチキは科学とは言えないでしょう。オボちゃんでもしねえよ、こんなアホ丸出しの解釈!「あんたってバカ~?」(エヴァンゲリオン、アスカ風)

これ以外にも、いろんなところにパラメータを設けていろいろな考察を加えるとね、とてもじゃねえけど胃がん検診に効果があるなどとは言えなさそうな事実がゴロゴロしていたりします。例えば、・・・・って、その前にまず、あんたの頭の中をリセットする必要があります。(←いつものことながら、偉そうに言うなっての!)

あなたの頭の中を覗くため、次の質問にお答えください。あなた、もしくはあなたの大切な人にがんが見つかったとしましょう。そのときあなたはどう対処すべきと考えますか?

「がんが見つかったって?大変だ。がん細胞は増殖力が旺盛だから、これが大きくなって転移する前に、なるべく早く切らなければならない。手術が間に合えばいいけど・・・・」

こんな風に考えちゃったりしませんか?もしそう考えるとしたら、あなたはいつの間にやら間違った知識を植え付けられ、誤った方向へと洗脳されたたド阿呆ってことになります。それはなぜか。がんってそんなに早く増殖などしないからです。

例えば1cmの大きさのがんがあったとします。(この1cmってのは、近頃の最新技術を使った早期発見とやらでようやく見つけられるようになった大きさでありまして、昔は2cmとか3cmにまでならないと見つけられませんでした。)この1cmであったがんが手術の決断を先延ばしにしている間に2cmになるとか、そんなこと普通はあり得ません。なぜなら、がん細胞ってのは1cmの大きさになるまで何十年もかかるってのが定説なんすよ。病理の先生に聞いてごらんなさい。本当だから。それが2cmになるのにどれだけの年月がかかると思いますか?

それが日本ではそう知られていない。おそらく日本人のほとんどがここを正しく理解できておらず、数多くの方が上記のような洗脳を受けちゃっているように思います。おいらも遠い昔には完全に洗脳させられていたド阿呆でして、学部に進学するまではそう思い込んでましたからね。がんはすぐにでも大きくなって、その大きくなる課程においてあちこちにがん細胞をまきちらしては転移を促進してしまう。そんな錯覚。でもこんなの、真っ赤なウソです。

がんが見つかったなら見つかったで、どう対処するかゆっくりと結論を出してもらってかまいません。なんたって、がん細胞なんぞ、そう簡単には大きくなりませんからね。

てことで、がんなんてもんは早期発見もへったくれもないんです。見つけた時はもはや早期でも何でもない。なんたって既に1cmもの大きさにまで育っちゃってるんですからね。これ、がんが誕生してからもう何十年もたった後だってことで、早期どころか遅期も遅期、”超遅期”発見もいいとこなんです。

がんによる生死はがんがcmレベルにまで育った後の発見が早いか遅いかでは決まりません。これはもう自信満々申し上げますが、そんな死亡率の差を示したデータなど、この世の中のどこにもありゃしません。もしその真偽を確認できるデータがあるとすれば、その逆の結論ばかりです。言い換えると、がんによる生死は目に見えるような大きさになってからのがんの大小などでは決まりません。そのがん細胞の性質、即ち、転移の有無によって決まります。

がんには転移する奴としないやつがあって、転移する奴は致死性ですが、転移しない方のやつではまず死にません。でもって、転移しないがんが転移するがんに変化することもなく、転移する奴は最初から転移するし、転移しないやつは最後まで転移しない。そういうもんだということッス。(←こちらは科学的には証明できていません。が、おいらはそう信じている。そういうことッス。)

この辺の主張は「患者よ、がんと闘うな」で有名な慶応の近藤先生が提唱されている”がんもどき”と同じものになっちゃってるようです。ただ、おいらのこの情報の仕入れ先は近藤先生の著書ではなく、同級生の医者から「長年臨床をこなしてきて、最近こんな感覚になっている」と酒の席で悶々と言われたものです。この友人の言をきっかけに、(科学的に証明されてはおりませんが)おいらはそう信じるようになりました。

彼は外科医なのでがんが見つかれば切ります。それが彼の商売ですからね。それで助かる人と助からない人がいる。この違いをようやく感覚的にこうじゃないかと感じられるようになってきたそうです。

「切って患者が助かればそりゃ気持ちがいいし、医師としての達成感もある。これを繰り返すことで、がんに手術は有効だと思い込んでしまう医師もいることだろう。それは分かる。それくらいの充実感があるんだ。でも、俺様は違う。(←こいつもおいらと同様、思い上がりの激しい男です。)本当に自分の手術によって患者が助かったなどと短絡的に信じ込むわけにもいかない。なぜなら、科学的にそう断定することのできないあやふやな部分がどうしても残るから、即ち、切らなかったらどうなっていたのか誰にもわからないからだ。」

「切っても助からなかった人というのはがんが転移して死に至るのだが、転移自体は実はその手術のもう何年も何十年も前のとっくの昔に起こってしまっている。転移するがん細胞ってのは、まだ肉眼などでは見えないレベルのときに、既に全身に飛び散っているのだ。即ち、早期発見という名目の下で1cmくらいの大きさになったがんを見つけたところで、実はその数十年前にがんは発生してるわけだから、既に転移を済ませていると考えた方が自然だし、臨床上の感覚的にもその可能性が濃厚なのだ。」

「こういう患者さんの身体にメスを入れるという行為は正しいことなのか?転移が目に見えないというだけで、実は既に転移していて早晩死を迎えるに違いない患者さんに対して、俺たちは体力を失わせて寿命を縮める意味しかない無駄な手術を、下手をすると複数回に渡って行ってしまっているということなのだから。」

「今がん健診でがんを見つけて「早期診断できるようになってよかった」などといい気になっているが、これは極めて漫画的で本質を外しまくっている。現在の医療技術なんてものは、がん細胞が発生して何年も何十年も後になってやっと見つけられるようなレベルに過ぎないというのに、何が”早期”だ。いずれ後世の人から「バカな時代もあったものだ」と嘲笑されるに違いない。ただ、真の早期診断は今の科学技術ではどうしようもないことだが、考え方を改めるくらいのことは可能なはずだ・・・・これまで行ってきた膨大な医療行為の否定につながるかもしれないので勇気はいるが、・・・・・」

とまあそんな感じのことを言ってます。(←彼の口から出た高尚で小難しい用語・言い回しを、おいらのようなド阿呆でも理解できるよう相当アホっぽく意訳しています。)

「この理屈だって、科学的には証明されてはいないよ。だから断言はできない。でも、自分の経験からくる感覚をひも解いていくと、どうしたってこう考えた方が合理的なんだよ。科学じゃないから、声高に主張もできないんだけどね。それに、今の技術じゃ転移性がんと助かるがんとを見分けることはできないんだから、どうしようもないし。」

んじゃせめて、転移性がんと助かるがんの存在をそれこそ科学的に証明すればいいじゃねえか、ってことになりそうなんですけど、それすら出来れば苦労はしないと・・・・・。ま、確かにそうですよね。おいらだって直感的に分かります。そんな実験、出来っこないってことくらいは。

てことで、まとめます。

がんの”早期”発見とやらで見つけて手術して助かるがんってのは転移しない方のやつで、手術しても死んじゃうがんは転移する方のやつだ。そして、この違いを今の科学技術で判別することはできない。即ち、今の科学技術による転移後の”早期”発見など無意味。こういうことになります。だからおいらは胃がん検診を受診しない。そういうことです。

なんだか書いていて内容が重暗~くなっちゃいました。これまでの脱線に次ぐ脱線をご容赦くださいませ。一応、突っ込まれる前に書いておきますが、ごくまれに短期間で大きくなるがんもあります。が、普通の人はまず間違いなくそんながんにお目にかかれることはないでしょう。それくらいまれだそうです。あと、転移性のがんの方はそうでないがんに比べて早く育つのがあるそうです。が、しかし、こちらは見つかったら最後、もうどんな治療をしたって無駄なので、早期発見の意味がないことに変わりはありませんがね。

というわけで、とにかくおいらはがん検診を受けません。がんが大きくなって何らかの症状が出てから対処したところで、結果は同じだと思いますんでね。それが転移しないやつなら死なないし、転移する奴なら死ぬ。今の技術では転移前に転移するやつを特定することはできないんですから、いつ見つけたって死ぬときゃ死ぬんです。そう考えることで納得してます。

これって天才だからこその判断?いや、ただのアホなのかもしれませんよ。「がんには転移するやつと転移しないやつがある」なんて仮説自体、デタラメかもしれませんからね。当たるも八卦、当たらぬも八卦、信じる者は救われる、汝信ずることなかれ・・・・ってことで、単においらはこう考えているというお話でした。あんたはあんたで好きにしたらいいッス。どちらを選ぼうが、全て自己責任だからね。こういうところが人生の面白いところなんだし。(←って、またまた偉そう?)

長文に疲れましたんで、そろそろこの辺で。

んじゃ。

(メレ)

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  1. 2015/03/30(月) 21:27:40|
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花粉デブ

ウォーキングしたくてもできません。どうしたらいいでしょうか。

クドさ大爆発のクソジジイよろしく何度も書いちゃって申し訳ないんですけど、おいらったら花粉がまだ飛んでいないとされている1月の段階でもう既に敏感に反応してしまう程の重篤なるアレルギー性喘息持ちです。なもんですから、空気中に花粉が大量に漂っている今の時期、屋外でのウォーキングなど言語道断でして、運動ってものがまるっきり出来ません。やるとしたら、せいぜい通勤の電車の中で立っているくらいなもの。てなわけで、朝晩それぞれ計50分ずつくらい立ってはいるんですが、実感としてはほとんど何の意味もないような気がします。

で、この前、死んだ気になって「朝1時間通勤ウォーキング&朝晩計50分電車内立ちっぱなし&夜1時間通勤ウォーキング」ってのをやってみました。つーか、やってみようとしました。朝晩はまだ花粉飛散量が抑えられてますからね。密閉式マスクでずっと呼吸器官を防備していればなんとかなるかもしれない。なぜかそう思ってしまったんですね。これが出来ないなんてことは歴史が証明しているというのに、加齢により死滅しかかっている脳細胞が先に絶望しかない希望へとすがりついた。そんな感じです。

それを実行した日、早速午後には咳が出始めて止まらなくなりました。その咳は時間経過とともに重篤度を増していき、おいらったら生理的にも聞くに堪えないであろうクソジジイによる連発する咳によってオフィスの静寂をブチ破るだけのただの厄介者へとなり下がりました。そんな状態ですから、もちろん帰りのウォーキングなどは思いもよらず、電車とバスを乗り継いで極力表に出ない作戦で帰ったんですが、それでも夜は咳込んじゃって眠れなくなり、翌日また会社を休む羽目に陥りました。これで今年8日目の花粉休暇です。

それにしても、ここまで花粉に敏感だとホント、会社に行くのも命がけ状態なんですけど、とりあえず周りにはここまで酷い花粉症患者など一人もおりませんので、同僚はおいらが花粉をネタにずる休みしてる的な反応しか示しませんし、このおいらの惨状を誰一人として正確に理解してくれません。なんで自分がこんなことになっちゃっているのか、ただひたすら自分の体質を呪う以外にないわけです。

そんな中、会社のエレベータなんかで「最近、花粉症になっちゃったみたいで~」とか言って目がかゆいだの鼻水やくしゃみが出るだのと生ぬる~いこと言っては、わざとらしく目をこすってみて目がかゆいアピールに余念のないクソガキなんかをたまに見かけたりもするんですけど、こういう世の中をなめきったようなガキに遭遇するにつけ、殴りかかりたくなるような感覚が噴き出てきたりなんかしてどうにもならんとです。

毎年今の時期はこんな状態なんですけど、そのお陰さまをもちまして、今年もまた、たっぷりと肉々しい身体が出来上がってしまいました。外に出れば喘息が出てしまうおいらったら、いったいどうやってエネルギーを消費すればいいのでしょうか。家の中でビリーでもやる?でもその気力がどうしても出てこないんだよね。出勤しただけでダメージが激しく、何一つまともに働いてもいないってのに、帰るときにはもうフラフラですから。ダラダラ歩いていればいいウォーキングって、こんな体調にピッタリなんですけど・・・・でも、外に出られないんだからしょうがないッス。

「食わない」ってのはダメなんです。アレルギー症状で全身が炎症を起こしている状態ですから、身体にエネルギーを補給し続けないと、すぐに寝たきり老人みたいになっちゃうからです。→実際、一食抜いただけで低血糖状態が頻発して、道を歩いていても目まいで立ってられなくなったりします。→だからとにかく食わなきゃならない。→でも、全身の炎症症状で消費されるエネルギーなんぞたかが知れている。→エネルギー摂取過多状態が続く。→デブ化する。この悪魔のサイクルが毎年飽くことなく繰り返され、この時期のおいらの体重はどうしたって10kg規模で成長してしまうことになるんです。

このたまりにたまったエネルギーを少しでも消費するため、電車で立ってる以外の何かが出来ないものでしょうか。ド阿呆の皆様のアイデアを募集します。

んじゃ。

  1. 2015/03/27(金) 22:08:40|
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創玄展

先々週末、乃木坂の国立新美術館にて表記の書道展示会が開催されておりましたので行ってきました。

この展示会ったら展示スペースだけでも数十区画もあるとんでもねえ規模のもので、そのとてつもない量の展示の全てが全て、おいらが書くより全然上手なんですけど(当たり前だ!)、力量別に区画が分かれていたので、量の割には結構見やすかったッス。

おいらの書道偏差値を自己評価すると、自惚れなし&謙遜なしでおそらく40くらいのもんだと思うんですけどね。そんなクソ野郎でもいい作品と大したことのない作品って分かるもんです。おいらみたいな書道超絶劣等生でも、一番いい作品の並んでいる区画だと見入ってしまいますし、大したことのない区画は素通りしてしまう。これが自然にできちゃいます。いい作品って空間の使い方が違いますからね。すぐにわかるんですよ。

って、なんだか偉そうなこと言ってますけど、これっておいらに限らず、誰だって分かることだと思います。なぜなら、この出来損ないのおいらですら分かるんだから。(←説明になってねえっつーの!)つーか、実はこの書道音痴のおいらが書道作品を見てうまいの下手だのと感じるなんて、初めての経験だったのでした。

以前よりたま~に地元の展示場で開催されているような書道展にも行ったことはあったんですけどね。このときは見事なほどにな~んにも感じませんでした。さすがは偏差値40の劣等生ってところでしょうか。日本のトップクラスにあるような本格的な展示会で「文部大臣賞」とかなんだとか格調高そうな賞をもらっちゃうような国を代表するレベルの作品を見ないことには、何も感じることのできないという愚鈍さを濃厚に持ち合わせているってことッスね。

そんな出来損ないのおいらなんぞが今更偉そうに言うことでもないんですが、「書」ってのはホント、味わいがある世界です。この展示会を見ておいらなりに感じるところがありました。突然の言い草に気が狂ったかと思われるかもしれませんが、これ、将来への道筋って意味でおいら的には神の啓示みたいなものがありましたんで、劣等生の分際ではありますが、早速行動に移しちゃおうと思い立っちょります。

もちろんおいらったら書く方の才能は相も変わらずありゃしませんので、そっちには一切手をつけません。つーか、書くこと自体そもそも面白そうとすら思わないもんですから、「劣等能力&面白そうと思わない」という絶望的な組み合わせの下では、どんなに時間かけてやったところで結果は知れてますです。ってことで、書く方はおかんに任せ、おいらはおいらで別のことをします。そのおいらがやろうと思ったこと、それは「表装」です。

展示会を見ていて、表装技術を会得しちゃおうと思いました。といっても、もちろんただの表装じゃないっすよ。いずれはその技術を応用して、世の中にない作品を作り出す。おいらはこれを直感してしまったのでした。写真技術とも組み合わせます。フォトショでもいじります。彫刻的なこともやって、あとは・・・・これ以上言うのはちょいとこっ恥ずかしいので、今は秘密ってことにしておきましょう。

とにかく今年、サッカー撮影が一段落したら表装の基礎を学ぶことにします。幸いにして、別にお金をかけなくてもYouTubeをはじめネットを徘徊しまくれば基本的なところは学べるようですから、試行錯誤しながらやってみるッス。皆様ご承知の通り、おいらったらこういうのをやらせたら天才なもんですからね。すぐにプロ級の腕前になることでしょう。(ホントか?)でもって、来年くらいにはいろいろ試し始めます。

その線に沿って、今は頭の中でいろいろなアイデアを熟成させているところですが、相当長期間にわたって楽しめそうです。直感的に「写真」を始めた時と同じ感じなのよね。・・・・将来は友人のやってるレストランの店名を題材としたおいら渾身の作品を入り口にでも飾ってもらおうか。そんな妄想を炸裂中。

んじゃ。

  1. 2015/03/23(月) 21:04:32|
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YouTubeクラシック鑑賞各論

●恥ずかしながら、おいらったらP・ヤルヴィって指揮者のことを比較的最近(数年前に)知ったばかりなんだけど、彼のベートーヴェンってものすごくいいよね。いやそれどころかね、この人はよくいるバロック、古典派しか振れない古楽器バンド指揮者ってわけでもなくて、この人の振るマーラーやショスタコまでもが結構いい。プーチン大統領みたいな顔してるけどさ、中身はプーチンとは全然違ってやることのセンスは抜群だ。オヤジのN・ヤルヴィはおいら的にはイマイチだったけどね。

●モノラルはやはりモノラルだ。一回聴けばそれでもうおなかいっぱい。同じ演奏を立て続けに聴く気にはなれない。即ち、どこの誰が何を振っていようが、ソコソコいい演奏だと思うことはあっても”名演”とまでは思わないってことだ。

●ミュンシュ/パリ管の幻想交響曲はとてつもない。

●ザンデルリンクのブラームス全集は出色だね。ベルリンSOって相当ドイツドイツしてる。つーか、ヌタ~~~っとしてる。最初聴いたときはいきなり辟易としたんだけど、聴けば聴くほどよくなっていく。おいらのブラームスランキングに変化をもたらすことは必至。今ではそれくらいいい。評価が固まるまでもう少し聴きこんでみる。

●アバドのブラームスはそうでもない。そもそもアバドったら没個性の優等生って感じで、おいら的にはなんだかちっとも面白くない。捉えどころがないので印象にも残らない。

●朝比奈のはブルックナーに加えてベートーヴェンやらブラームスも聴いた。が、とにかくオケがヘタっぴなので感動するには至らない。総じて押すところはソコソコだが引き際がダメ。引くところこそ最高レベルの緊張感が必要だってのに、少し気がぬけちゃってる。テンポ的にはゆっくりだが、今演奏しているその音を大切にしていないっつーか、気持ちが次に行き急いじゃってて心ここにあらずって感じ。サビばかり気にしてる二流の演歌歌手のよう。(←こんな書き方で分かるか?)
・・・とはいえ、感動の予感はあった。彼のブルックナーが世で評価されているのも肯ける。特に5番8番などはオケさえよければ恐らく死ぬほど感動していたかもしれない。・・・もうどうしようもないけど。

●朝比奈のシカゴ響のライブも「ふ~ん」で終了。ブルックナーとCSOが相いれないだけなのかもしれないけど、オケがただうまいってだけでもダメなんだね。とにかくブルックナーは泥臭くないと。これがドイツのオケだったらなあ、・・・・これまた、もうどうしようもないけど。

●朝比奈ではマーラー2番だけはべらぼうによかった。同曲で映像としてYouTubeにアップされている他の「復活」(小沢、ブーレーズ、ラトル、ゲルギエフ)もチェックしたが、おいら的には朝比奈のが飛びぬけていい。もちろんオケはダントツに下手だよ。テンションが保てなくて、途中、中だるみもしてるよ。画質も録音も出来損ないだし、合唱なんか大阪のおばちゃんが歌っとる・・・・・でもね・・・・最後は不覚にも涙した。何も言うことはない。すばらしかった。・・・ちなみにおいら、もう二度とこの映像を再生しない。つーか、聴きたくない。二度目はたぶん粗ばかりに気をとられちゃって、せっかくのあの感動が失せちゃうような気がするから。

●ヴァント/ベルリンPOのブルックナーは総じていいように思う。世間の評価とは逆になるのかもしれないけど、おいら的には他のオケの盤よりしっくりくる。

●テンシュテットのマーラーライブはいいです。とってもいいです。ものすごくいいです。

●ゲルギエフのショスタコは結構いいって感じ。優れているとは思うが決定版ってほどではない。が、チャイコフスキーの5番はよかった。突き抜け感あり。

●ムラヴィンスキーのショスタコは、以前では考えられないような録音のいいやつが出てる。そこにはとっても感激。音楽としてはゲルギエフ同様、優れモノだが突き抜けちゃいない。特に映像を見ちゃうとダメ。この人の指揮っぷり見てるとテンションが駄々落ちする。

●小沢征爾のドキュメンタリー的なやつを何本か見た。おいらったら彼の演奏によって心が打ち震えるような感動を得た経験が一度もないんだけど、ま、それはそれとして、偉大な人だという思いが出てきた。やはり単細胞なやつを洗脳するには相応の映像を見せるに限るようだ。

●カラヤンの3本立ても見た。でもカラヤンのファンにはなれなかった。すごいな、とは思うんだけどね。好きとすごいは違うっちゅーこっちゃ。

てな感じなんだが、こういう評価って何年かたつと真逆のものに変わってたりするから面白いよね。そんなこともあるんで、後年面白がるためにも書き残しておいた。次はあんたの番だよ。やってみ。

んじゃ。

  1. 2015/03/19(木) 22:53:56|
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名曲名盤300

原点回帰第二弾ってことで、今日はクラシック音楽についての話題です。

このブログでは最近全く触れてもきませんでしたが、おいらはクラシック音楽を結構コンスタントに聴き続けています。聴いている曲自体は基本的に以前とほとんど変わらないんですけど、昔この話題をここに書いてた頃よりはほんの少しだけ古典側にレパートリーを広げ、おいら的にはチャレンジングな音楽鑑賞を進めたりもしてます。(と言っても、せいぜいベートーヴェンまでですけど。)

とは言え、お金は全然かけておりません。音源として最近もっぱらYouTubeに頼っているもんですからね。実際検索とかしてみればすぐに分かりますが、とにかく様々な音源がYouTube上にアップされているもんですから、選り取り見取りで困るほどです。これだけあれば、特段CDなど買わなくても一生過ごせるように思われます。

そんな中、おいらったら「ある交響曲全集を一気に聴く」とか「ある指揮者の演奏を立て続けに聴く」みたいなことを繰り返しております。たとえば、P・ヤルヴィのベートーヴェンとか、ザンデルリンクのブラームスとか、朝比奈のブルックナーとか、ムラヴィンスキーのショスタコとか、指揮者で言うならP・ヤルヴィ、ゲルギエフなんぞをまとめてガガガガーッと聴いちょります。

その一方で、名演と言われてて聴きたかったんだけど聴く機会のなかったもの、たとえばフルトヴェングラーのベートーヴェン4、7番とか、トスカニーニのベートーヴェン奇数番交響曲とか、ミュンシュ/パリ管の幻想交響曲とか、ヴァント/ベルリンPOのブルックナーとか、テンシュテットのマーラー5、6番のライブとか、とにかく以前ならバカにしてろくすっぽ聴いたことすらなかったモノラル版にまで手を出しながら、何でも聴くようにしてます。

YouTubeでわざわざ検索までしてその曲、その演奏を聴こうとする動機には、もちろんそのもととなる情報が存在します。今現在どんな演奏が流行っているのか。どの演奏が名演と言われているのか・・・・おいらのクラシックの情報源ってのは、ネット上にあふれている様々な人の意見に「名曲名盤300」っていう一冊の本を組み合わせたもので、そこに愚鈍な推理を働かせた複合的な判断が試聴行動の礎となっています。

この「名曲名盤300」という本ですが、こいつはレコード芸術で繰り返し行われてきた企画の最新のもの。と言っても2011年発行の本なので情報としてはソコソコ古いんですけど、クラシック音楽ってのは毎年名演がボコボコ出てくるような世界ではありませんし、名演と言われる演奏のほとんどは20世紀に生まれたものばかりですので、そういう意味では大して古くもなく、大きな問題を感じることのないまま何年もに渡って愛読し続けております。今、新しいサイクルで「名曲名盤500」に相当するものを作ってる最中みたいなんですが、これも出た時点買っちゃうと思います。

・・・あんたもこれ、読んでみたらいいよ。結構アホらしい企画なんだけど、「次に聴く曲」の選択に当たって実質的に役に立ったりするからさ。(←一部のブログ読者に向けた突然の叫び。)

え~っと、頭の中がまとまってないので、続きはまた次回に。

んじゃ。

  1. 2015/03/18(水) 22:41:53|
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ジジくさいチーム

これまでフォトブックの話題ばかりで少々うんざりしてきましたので、ここらで一発気分を変えて、ブログ開設の原点に戻ってFマリの話題などしてみますです。

いつからでしょうか、つーか、実は岡田が監督に就任した頃からって分かってるんですけど、Fマリったら使い古しの爺さんばっかりかき集めてなんとか平均点以上のサッカーをしようという、なんだかとってもジジむさいロートル路線をチームの運営方針として掲げ(?)、以降、ブレることなくその路線をまい進して参りました。おかげさまで、チームはいつでも中途採用の中途半端な中年ばかりが幅を利かせるリーグ中位狙いの宙ぶらりんな存在に甘んじてちゅーちゅー・・・、そのせいで一昨年みたいにまぐれで上位に行くことも稀にはあるのかもしれませんが、基本的にはどんよりしていて、この開幕の時期ですらウキウキする感じがな~んにも出てきません。

サポーター側がウキウキするような高揚感を感じるためには、どうしたって若手の台頭なるものが必須ですし、そのためには危なっかしかろうがなんだろうが、若いやつらを可能性のある限りガンガン使ってやるしかない。そうすりゃ、弾ける奴だって出てくるでしょう。若いやつは図に乗らせるに限りますからね。

でもFマリはこれをしない。つーか、できない。他のチームは着々と若返りを図って成功を収めてるってのにね。血豆なんかモロそうです。若くて有望な選手が弾けまくっている。それに比べてFマリは・・・・

昔を振り返ってみますとね、例えば乾。野洲高校のセクシーフットボールの申し子として鳴り物入りで入団してきましたが、予想通り全然使わない。

「使えねえジジイ使うくらいなら乾を使えよ。例え今使えなくたって、使えねえって意味では使えないジジイと同じだし、もしかするとジジイと違って突然化けるかもしれねえじゃねえか!」

サポの間で何度こんな会話をしたことか。でも使わない。で、翌年、乾はC大阪へと移籍してしまい、開幕早々香川とコンビ組んで弾けちゃいました。この「有能な若者がいい気になった時の大爆発」を目の当たりにした心あるマリサポが、一人残らず地団太を踏んだなんてことは言うまでもありません。

驚くべきことにね、あれ以来、チーム内で弾けたやつって一人も出てきていないんッスよ。これほどまでの長期にわたって若手を成長させられなかったチームって、他にありますでしょうか?

レンタルで表に出してそこで弾けた選手はいますよ。その代表格は、愛媛のメッシ(?)こと斎藤学です。その後愛媛から取り戻して代表にまで上り詰めた学ですが(今ちょいと下りちゃってますけど)、これに味をしめたのでしょう。あれ以来Fマリったら大量の若手をレンタルで出しまくってます。ただ、現実に相当数の若手を出してはいるんですが、誰一人として弾けてません。頭の悪い下條みたいなやつが成功事例を形だけ真似したって機能しやしないってことです。

いや、それどころかね、レンタルで出した選手の出先はJ2メインですが、そのJ2の試合にも出してもらえなくなる選手ばかりなんスよ。これってさ、もうその選手には目はないってことちゃいますか?そんな選手をね、あろうことかレンタル明けに取り戻してるんですよ。J2で通用しなくなった若造が、どうしてJ1で通用するんですか?そんなことも分からないなんて、頭が悪いにもほどがあります。

若手はね、とっとと使おうよ。でもって、ある程度我慢強く使って、それでも目が出なけりゃとっとと見切り、完全移籍もありで他チームへと移籍させる。レンタルから戻す選手は、せめて出先のチームで成長したことが明らかなやつだけにする。これが強豪チームの健全な運営なんちゃいますか?高校上りの選手をいきなりその年に使えとは言わないよ。でも大卒年齢になるまでには自チーム内である程度の実戦経験を積ませて一定の結論をつける。これくらいのペースで回していいんとちゃいます?

有望な選手なら高校出たばかりでもいいじゃん。ドフリーの一対一になったにもかかわらずシュートすら打てねえような使えねえFWを起用するくらいなら、和田昌士でいいじゃん。俊輔が怪我してるなら、守備しねえ劣化の激しい藤本淳吾なんか使ってねえで中島賢星でいいじゃん。中途半端な中年ボランチばかり起用するのではなく、せめて一枚は喜田とかアンドリューとかでいいじゃん。とにかく若いやつらを腐らせる前に使えるだけ使えっつーの。

マンCのおかげで採れたアデミウソンはオモロいかもしれないけどさ、それはそれとして若手もガンガン使おうよ。伊藤翔とか端戸仁とか矢島とか(←おいら、この使えねえFW軍団は”使えねえにも程がある罪”で絶対放出だと思ってた)、天野とかまた懲りずにレンタルに出した松本翔とか、あるいはもしかすると比嘉とかも、それ相応のチャンス与えて結果出せなかった選手はもういいってばよ。攻め手のないチームと言われて久しいけど、スピードも嗅覚も根性もない頭の悪いFWなんぞを大量に残すから得点力が出てこないのだ。そんなことも分からんのか?

得点力のないFW、あるいはある程度長期のチャンス与えてんのに目の出ないやつとか、今見切らねえでいつ見切るんだよ。どうせベンチにすらろくすっぽ入りもしないんだからさ。そんなところに出すお金がもったいないじゃん。それに、中途半端なやつを残すから、上がつっかえて若手にチャンスが回ってこないのだ。目がないなら切る。プロなんだから、こんなの当たり前だろ。

てことで、嘉悦と下條では無理かもしれないけど、動脈硬化を引き起こしている慢性肥満体質の改善とある意味自分で自分の始末をつける英断を期待します。

んじゃ。

  1. 2015/03/17(火) 22:22:31|
  2. サッカー
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フジフォトアルバム評価(2/2)

前回はどうでもいいアホみたいなことばかり書いてきましたので、今回はフォトブックそのものの評価について他のフォトブックと比較しながら触れていきます。

まずは画質について。

このフジのフォトブック、銀塩プリントってことで紙が分厚くて、更にそれを貼り合わせたりしているもんだから学校の卒業アルバムみたいに重厚感が出て、一見するととってもよさそうに見えます。ただ、その画質について他のフォトブックと並べて冷静にじっくり見てみると、細部の解像感はデパ帳やココアルを確実に下回ります。MyBookと比べるとちょい上くらい・・・・いや、もしかしたら同等くらいじゃね?・・・とまあ、それくらいの実力です。

ネット上での評価、例えば大量のフォトブックを比較した有名なブログなどを見ておりますとフジの画質が一番いい的な評価を下しておりますし、おいらのこのブログの以前のエントリーを見ていただいても明らかですが、現物を見ていない段階ではおいらもこの評価を信じていました。

あれだけフォトブック経験の深い方がなんでフジの画質を一番いいと評価にしているのかっつーと、つまるところ粒状感がなく滑らかだというところに依っているようです。現物を見ると確かにとっても滑らかで、粒状感などカケラもありません。カラーの水彩画的表現とでも申しましょうか、決してブツブツザラザラしていない、なんかこう、顔のしわなどは確実に減る類ののっぺりした画質なんです。

「なるほど、これをもって画質がいいと思う人がいるのか。」

世間知らずのおいらにも、世の常識(?)ってものが少し理解できた気がします。

ただまあ誠に申し訳ないんですけど、おいら的にはこの「画質がいい」というご意見にはまるっきり共感することができませんです。つーか、現物を見る限り、どこからどう見たって画質は相当低いと言わざるを得ません。だって、全然解像してないんだもん。しょうがないよね。スマホとかコンデジなんかで撮ったもともと解像感に欠けるような画像を用いてフォトブックを作ったりするならまた別の評価になるのかもしれませんが、フルサイズ一眼でキッチリ撮ってる画像を使用しながらこの画質をいいと評価するのは無理があります。

大げさに言うなら、なんだか弱いぼかしフィルターをかませた昭和の画像って感じでしょうか?いや、それよりも、パステルやら水彩画的なフィルターをかけた感じとでも言った方が正しいでしょうか?・・・誰だって見りゃすぐに分かると思いますけど、とにかく空気感とか湿度感とか、見る者に生々しさを伝える「水も滴る感」がなくなって、ひたすら絵画っぽくなっちゃってるんだよな~、これ。

言語で伝えるのって難しいので、手を変え品を変え別の言い方をしてみましょうか。

このフォトブックったら生々しさに欠ける、即ち微細な階調表現が特に苦手なようで、激しいコントラスト下などでは髪の毛は簡単につぶれ気味になるし、顔のしわなども端折られて肌の細胞感も全く出てないし。こういう絵の作り方って、ことポートレートに限って言うならシミとかシワがとれてガサツいた肌もきめ細やかに見えると思うんで、女性は喜ぶと思いますよ。でも決してこれ、画質がいいってことじゃない。単に解像してないだけです。

解像度だけ見ると用意した画像の290dpi相応の画像、いや、ぶっちゃけもっと低いんちゃう?290dpiなら、その辺のラボに出してももっと解像するでしょ。直接並べちゃったらとてもじゃないけどデパ帳などとは比較にすらならないレベルですからね。そもそも銀塩ってのがこうだったのか、それともA3みたいな大きなサイズを銀塩処理するとこうなるのか(もう昔過ぎて、銀塩プリントがどんなだったか忘れちゃいました)、その理由はおいらにはよくわかりませんが、これなら明らかにインクジェットの方がいいッス。

とまあ、こんな感じでしょうか。いきなりネガティブな評価が続いて大変申し訳ないのですが、おいら自身も期待してた分、ちょいとガッカリしている次第です。あと、ついでに言うと、表紙の画質は更に落ちます。光沢感が残っていることもあってココアルの表紙ほどではありませんが、フジのも若干ボール紙的な画質で黒に締まりが足りません。

以上、解像感を何より優先した画質という観点のみから作成経験のあるフォトブックに順位をつけるならば、「デパ帳ラスター≧デパ帳サテン>ココアル>フジ≧MyBook」って感じになります。

次に、本としての装丁について。

これはもう、文句なくフジがトップです。本としての厚さがナント3cm強、分厚くて頑強なハードカバーに覆われた重厚感あふれる印画紙48頁の迫力たるや、ある意味やたらと高級感があります。これに、本として外装をしっかりと作り込んでいるMyBookが後続し、ほんのわずかの差ですが更にその後ろにデパ帳が続きます。これに対して、表紙がボール紙的なココアルはどこからどう見ても最下位ってことになりますね。

またこのフジ、全ページが180度開くってのは相当な強みです。ページを開いてどの部分も平らな状態で見られるという機能は、いつもノドの部分を気にしながら画像を作り込んでいるおいら的には相当ポイントが高いです。ノドの部分ってさ、ホントどう処理しても丁度よくいかないんだよね。どうやっても歪んで見にくいし、そのくせ少しでも左右をかぶらせるとそれが分かっちゃうし。定常的にページをまたがるデザインに頭を痛めているおいらにとって、この不自由さがなくなるメリットって、ディテールの解像感に欠けるというデメリットを補って余りあるほどの評価ポイントになり得るのかもしれません。

以上、装丁の観点から導き出される順位を式で書くなら「フジ>>MyBook≧デパ帳>>ココアル」という感じです。

最後に”価格設定”について。

公平を期すため、我々が実際に購入する際の価格を鑑みた「キャンペーン等による値引きを前提とした単位面積あたりの価格」で比較すると、次のようになります。
 ◆ココアルの面積単価を10とすると、
 ◆フジフォトアルバムは15
 ◆デパ帳サテンも15
 ◆デパ帳ラスターは17
 ◆MyBookが20

この中で、フジの面積単価はページ数による変動が大きく、上の15という面積単価は最大ページ数48ページで作成した時のものです。最小の8ページで作るとこれが2倍近い28になりますので、少ないページでの作成には不向きと言えましょう。(つーか、ページ数を減らすとコスパがどんどん悪くなる。)

というわけで、総括します。

まず、おいら的に高くてヘボいMyBookの利用というのは100%あり得なくなります。もちろんこのMyBook、サイズはバラエティに富んでいて完成品の装丁はしっかりしてるし、大量の使えるテンプレートを用意しているところなどをみても、フォトブック界で一番人気を保っているのも当然だと認めるところではあるんですけど、何よりも画質(解像感)を優先して考え、フォトブックを作成する際には全て自分の手を動かすマニュアル対応を貫いているおいらと致しましては、そのメリットを全く享受し得ないので魅力がないってことッス。

でもって残りの3つ(デパ帳、フジ、ココアル)をTPOに応じて使い分ける。そんな感じになりますね。

お気楽な作品はココアルで作ります。なんたってずば抜けてお安いですからね。ただ、キャンペーンによって価格は大きく変動しますので、出来る限り上半期末や年度末によくやっている基本料50%offキャンペーンに狙いを定めて作ろうと思います。

卒業アルバムみたいな人生の節目を飾るようなザックリとしたデザインの永久保存版的作品は、A4縦48ページものが作れる限りはフジでいきます。頭一つ抜けている重厚感に加えてページを180度開けられるという機能は、細かい画質などにこだわるよりも、記念碑的アルバムとしてあるべき重要な要素かと存じます。

48ページでは仕上げられないとか、あるいはページの隅々まで神経を使って細かい表現を折り重ねたような繊細な作品などはデパ帳ラスターで作ります。32ページ以下ならハードカバー、それ以上ならソフトカバーってことになりますが、本ってやつは一旦歪んでしまうと元に戻らなくなりますから、そのリスク回避を鑑み、永久保存版を作るんならハードカバーでしょ。

とまあ、現在の考えを整理していくと一応こんな感じにまとまるんですが、重箱君、長くなったがこれでいいかね?

その一方でね、実はこういう頭の固い決めごとを離れて、デパ帳サテンのソフトカバー102ページなんつーのもいつの日か作ってみたいとも思うんスよ。100ページ超の手作り写真集ってどんなものなのかと思いましてね。ただ、こいつを作るにふさわしいテーマがないもんだからイマイチピンときてないんですが・・・・

例えば、「我が家の歴史」とかどう?20年以上前のEOS 5QDで撮った銀塩写真のスキャン画像から始めて、デジカメ初期のでたらめ画質画像を並べて作る一大絵巻・・・・デジカメ初期の画像などはサイズが小さすぎる上に画質自体も酷いのでどうやっても綺麗な作品にはなり得ませんが、こうした過去の画像はこのままだとHDDに寝かせたまま日の目を見ることなく消えて行くだけなので、何だかとっても惜しいでしょ?こういうのって作成意欲と体力が残っている間に作っておいた方がいいような気がするもんですからね・・・・本当に作った方がいいのか?????

まあいいや、どうあがいても今年の秋にはこたろサッカーが終焉を迎えるので、それが終わったらライフワークみたいな形でとりあえず作り始めますです。飽きないようにゆっくりと、ゆっくりと。それで嫌になったら止めちゃうってことで。

あ~、あと全然関係ない話ですがついでに言っておきます。デパ帳の2Lサイズお試し版60%offという設定について、より高額な”ラスター”で作っても22ページものが1,500円ちょいで手に入るみたいですから、そのコスパは相当高いッス。画質確認を主眼においたお試し作品としてはとってもお手頃かと存じますので、つべこべ言ってないであんたも作ってみたらどう?結構いい感じだよ、これ。

んじゃ。

  1. 2015/03/10(火) 20:54:00|
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フジフォトアルバム評価(1/2)

発注から3週間以上が経過致しましたが、フジフォトアルバム(以下、「フジ」と呼ぶ)のフォトブックがようやく上がってきましたのでレポします。ただ、評価は出来上がり作品の画質だけでなく、作成手順も含めてやっていきます。

さて、このフジのフォトブックを作成するに当たり、最初にやったことは「フォトショップのフォーマットづくり」です。といってもそのフォーマットってのはデコレーションに関係するものではなく、単にサイズを確定させただけのことなんですけどね。画像のピクセル数を動かしながら、フジの作成インターフェース上、見開きA4縦サイズ(A3横)のキャンパスに「原寸」ボタンでページいっぱいに表示される最大の画像サイズを計測しました。(←計測値等はメールくれたら教えてやるよ。)

フジでは「原寸」の画像を”推奨画質”としていますので、これがこのフォトブックで得られる最高画質かと思われます。つーか、これを超えるどのような高画素画像を用意したところで、画像を確定させる際にこの「原寸」レベルにリサイズされてしまう(ようことをしているように見える)ので、これ以上の解像度をもった画像を用意しても実際のプリントには反映されず無駄に終わるように思います。インターフェース上のドブの部分の正確な寸法が分からないので、手持ちの情報だけで「原寸」の解像度をキッチリ算出することはできませんが、ザックリ逆算すると290dpiくらいになっています。

でもって、計測結果として得られた最大サイズをフジフォトブックA4縦見開きフォーマットとしてフォトショpsdファイルを作成。そのフォーマットをベースに、48頁分の見開きJPEG画像24枚を作成していきます。表紙&裏表紙の1枚はまた異なるサイズなのですが、そちらも同じ方法・同じプロセスを経て「表紙フォーマット」なるものを作成します。

本体部分のフォーマットはA4縦の見開きサイズ、即ち290dpi程度のA3横サイズってことになるのですが、1,280万画素の5Dの画像だと縦横ともに画素数が足りず、1枚画像を見開き大に仕上げることが出来ません。つーか、拡大すりゃ物理的には作成可能なんですが、原寸よりも拡大した分 画質が推奨画質より落ちてしまいます。ゆたろサッカーは全て5Dで撮影しておりますので、画質を維持したままA3大の1枚画像が作れないってことですね。しょうがねえから、見開きにドカッと置きたい集合写真などは拡大して対応したんですけどね。そこだけはちょいと残念で、5Dの画素数が少ないことに憂いを感じてしまった珍しい経験でした。(拡大した分の実際の画質劣化の程度は、大騒ぎするほどのもんじゃなかったけどね。)

話を戻しますが、フォトショで作成した見開きJPEG画像を置いては「確定」というボタンを押して2ページごとにページを確定していきます。この「確定」のプロセスは製造側の事情に由来するもののようでユーザーから見るとなんだか無意味な感じがするんですけど、それはともかくとして、通常は何枚もの画像や文字をレイアウトして見開き2ページのデザインを完成させ、これを「確定」させることで「原寸」の解像度の1枚画像に変換されるんだと思います。

でもやっぱこれ、面倒なんだよね。確認といいながら、その確認画像のクオリティが相当低いのでちゃんと高画質で印刷されるのか不安にもなるし、そもそもこの「確定」のプロセスっている?そんなことよりも、他のフォトブックみたいに、全ての作業を終えた時にフォトブック全体をそれなりのクオリティでプレビューさせてほしいところです。

さて、全ページを確定させたら、いよいよフォトブックを注文します。あとはもう、一直線です。

って、おい、重箱、やっぱ面倒くせえぞ。それにこれ、読み返しても面白くもなんともないし。もう飽きたので、プロセスなんか書くの止めてフォトブックそのものの評価に進むぞ。

んじゃ。

  1. 2015/03/09(月) 21:23:57|
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現在の放射線量

まだ続けるのか~・・・・・現状の放射線量と基準との関係・・か??そんなことを議論したかったんだったらさあ、最初からそう言ってくれよ。もう面倒くさいから上から目線で遠慮なく無責任にバラバラに書いてくぞ。よく見りゃ以前書いたことを表現変えたりしてるだけってことになるかもしれんが、まあいいや。信じるも八卦、信じないも八卦。全てあんたの自己責任ってことでよろしく。

今でも定期的に測定・公表されている文部科学省のデータを見りゃわかるけど、福島は大抵の場所で0.1マイクロを超えてるでしょ?ザックリ言ってこれって平時の基準値である年間1mSvを超えてるってことだよ。事故後4年も経っていながらこれなのだ。福島市のこの公園では0.5マイクロを超えてる、ってことは5mSvはあるってことだよなあ。で、放射線源はセシウムなんだから、この測定値は今までも、そしてこれからもほとんど下がらないってのと同義だろ。

数年もそこに住んでればさ、子どもなんか公園のホットスポット上でしゃがんだり座り込んだりすることだってあったんじゃね?地上1m高の放射線量を公園外の5倍にまで引き上げてしまうほど強力な放射能を持った放射性物質の集積場所からの至近距離での生殖器被曝。これを1回でもやっちゃうと、リスクはいきなりそれまでの累積分の数倍に跳ね上がったりするっしょ。要するにこのリスクってのは1mSvだの20mSvだの言っている普通に生活する上での被曝量とは別の、上乗せでカウントされる想定外の被曝リスクってことだよ。それが、これまで数年間にわたる累積被曝量の数倍などというけた外れの大きさで起こりうるってことだろ、こりゃ。

そういう地域ではさ、例えば他でなら家族団欒の微笑ましい景色となるであろう「子供をベビーカーに乗せて公園内を散策する」なんてのが、絶対にやっちゃいけないとんでもねえ愚行ってことになっちゃうだろ。そこに住む限りは、常識をかなぐり捨てて普通なら気にもしないところをケアし続けなければならない。だいたいさあ、子供は公園に行くべきじゃないなんてこと自体がそもそもおかしいだろ。そんな通常ではあり得ないようなところまでケアするなんて相当しんどいことだし、実際には見落とすことだっていくらでも出てくるんじゃね?

ちなみに、伊達にいるというあんたの親戚にはちゃんと説明してんだろ?定期的に言ってやらないとつい忘れるからな。嫌がられても言い続けて、注意喚起を促し続けるべきだ。

って、まあいいや、話が本旨からズレまくってしまったので、元に戻そうか。

自然放射線による被曝は年間2.4mSv。これ以外の線源による被曝を年間1mSvにせよ、ってのがICRPや小佐古教授が提唱する子供のことを考えた基準値だ。ICRPの基準について勉強すりゃすぐわかるが、あのクソ枝野も20mSvを新たな基準値とすることまではできず、「これは暫定値」「これで安全ということでは全然ない」と言わざるを得なかったように、1~20mSvってのは緊急事態にのみ許される暫定的許容線量だ。20mSv以上なら即避難。それ以下ならば線量を1mSv未満に落とすべく手を打って、可及的速やかに平時の環境(1mSv未満)へと持っていかなければならない。その間にのみ許される暫定値。言い換えると、もし速やかに平時に戻す手を打てないのであるなら、逃げる以外にないってことだろ。違うか?

にもかかわらず、クソ枝野は政権を手放す最後の最後まで詭弁を弄し、正しいことをいう人を更迭してまでして、完遂はかなわない「除染」などというものにダラダラと無用な期待を持たせ、危険を訴える人に「風評被害を煽るな」とのレッテルを張り、挙句の果てはその結果が冒頭でも述べたとおり、4年もかけて福島のほぼ全域が未だに「基準値1mSvを超えてる」「今後もほとんど下がらない」なのだ。これがどういう意味か、底抜けのアホ~であるあんたにだって分かるだろう。

「福島に子供を住まわせるのは危険。」

被災後一貫してそう言い続けてもう4年が経過してしまった。あのとき生まれた子供がもう4歳になるってことだ。放射線感受性が極めて高い小学校入学前の乳幼児期を、平時の基準値を上回る環境で4年も過ごさせてしまったのだ。この4年間で、子どもたちは危険極まりないホットスポットに何度近づてしまったのだろう。想像もしたくないような事態だ。この状況に反応できない人にはもう何を言っても無駄だろうが、これはあまりに悲しい現実としか言いようがない。今からでも子供は県外に出すべき。なぜこんな簡単なことが分からないのだろうか。

さて、これらの基準値は体外での被曝が対象だ。これに対して体内での被曝、いわゆる内部被曝ってのは、特定の部位に集積した核種により距離ゼロという至近距離から確実に被曝するという意味で外部被ばくと比べてけた違いに危ないので、放射性物質を取り込んだ食材というのは、我々の食卓から極力排除しなければならない。

この理屈を無視して、あろうことか何の根拠もなく「食材からの内部被曝だけで100mSv」などと言いやがったあの東北大のなんちゃらっていうウスラバカ教授の食品基準なんぞ、相手にしちゃならんのだ。ここで詐欺師側から突っ込まれないように言っておくが、mSvって単位は生体内半減期だの至近距離だのという要素を全て加味した生態への影響を表す値なので、内部被曝の100mSvと外部被曝の100mSvは同等。内部/外部は関係ない。この基準について、おいらが問題だと考えるのは100mSvという値の大きさなのでよろしく。

この食品のもつ放射能について、いきなり説明をぶっ飛ばしちゃって恐縮だが、ベータ崩壊、ガンマ崩壊中心なら食品の汚染は核分裂の回数を表す”ベクレル”を気にするようにしたらいい。どのくらいの値を許容値とするかは人それぞれなので、おいらには決められないけどね。ネットを徘徊すればそれなりの知識が得られるから、自分で学んで自分で決めるがよろしい。

定性的なこと言うと、子供が食う食材なら厳し目に見とけ。あんたみたいなクソジジイ(おいらもか?)が相手なら、今どきの食品は何らかの測定をして安全を見ているようになったみたいだから、特に気にしなくていいと思う。子どもとジジイではそれくらいの大きな差がある。俺たちジジイは放射線被曝に対してとっても強い身体を持っているからな。線量の高い食材ばかりを積極的に食うわけでもないのだから、東北大のクソ基準でもおそらくジジイには機能する。ケタ違いの感受性を持つ「子供」だけケアしとけばいいと思う。

こんな感じか。面倒くさくなってきたのでもうやめる。これくらいでいいっしょ。同じ主張ばかりでくどすぎる。放射線ネタはもう、おなかいっぱいだ。

んじゃ。

(メレ)

  1. 2015/03/05(木) 23:11:11|
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鼻血以外の情報

美味しんぼでおいらが否定しているのは鼻血のくだり、それだけだよ。そう書いてんじゃん。分からんか?

その他の、例えばあそこに記載されている放射線量の数値などは全部本当のことを書いているんだろうし、枝野が国民を騙して「暫定値」とか言いながら導入しておいて4年たった今でも未だに採用し続け、実質的に「恒久値」にすり替えてしまおうとしているとしか思えないインチキな数値20mSvなどではなく、国際放射線防護委員会(ICRP)の提唱する平時の正しい基準1mSv(=東大小佐古教授も提唱)をベースに、いろんなところが未だにとんでもねえレベルで汚染されている的なことを言っているところも、まさにその通りで正しい対応だと考えている。

古くは野田が終息宣言を出したり、最近では安倍が東京五輪招致の際に「完全にコントロールされている」と言い切ってみたり、現地の状況からみて欺瞞に満ちていることが明々白々であるこれら歴代首相のちょろまかし発言を鑑みると、自らの作品の中でこういう部分をなるべくわかりやすく説明しようとしていること自体は評価に値すると思うよ。例えば、緊急時にテンポラリーに使用されるだけであるはずの暫定値20mSvを未だに採用し続けていること一つとってみても、とてもじゃねえけど収束だのコントロールだのと言えるようなレベルにはねえってことだしね。放射線感受性の年齢格差に触れてない分、論旨が今一つクリアではなく突っ込まれる要素を残してしまってはいるものの、ま、それはそれとして一定の評価はされてしかるべきだと思う。(←偉そうなこと言ってんじゃねえっつーの!)

その一方で、こいつの左に大きく傾いた立ち位置やら左特有のいちいち説教じみた表現方法が酷い異臭を放っていて鼻持ちならないなんていうことも、あの時書いたまんまで何も変わりはない。でも、だからといってヤツの言ってることを全否定なんかしていないでしょ?どんなに気に入らない野郎が言ってたとしても、正しいことは正しい。これは否定のしようがない。感情優先で理屈を否定するみたいな非科学的なことは某国の司法当局にでも任せておけばよろしいのであって、天才のおいらが為すべきことではない。とにかくおいらが否定しているのはただ一点、鼻血の部分だけだ。

あの一連の記述が全否定みたいに見えたって言うけどさ、そんな否定的なことどこに書いてある?今読み返してみても、書きかえなきゃならんような否定部分が見当たらないんだけど。だって、こちらにはそんなつもりなんぞ最初からカケラもないんだもん。そんな意識のないところでそんな表現、できるはずがないじゃん。

・・・これさあ、読む側に読む力がないってことでダメかね。要するに、あんたに国語力がないってことだよ。ウッシッシ。おいらったらこれを大衆に訴えかけようとして書いてるわけじゃなくって、単にあんたに読ませようと書いてるだけだもん。あんたごときを相手にするのにだなあ、鼻血を否定する代償(?)として、「鼻血以外の情報は正しいと思う」とか「この数値、この解釈は正しい」とか何とか、他をわざわざ持ちあげて見せる必要などないっしょ。

ただね、その「鼻血の間違い」ってのがおいら的には取り返しがつかないような意味を持っていたので、あんな書き方になった。

ああいうデリケートな話をね、おいらのこのクソブログなどとは全然違う金銭のやり取りを伴う媒体を通じて大衆を相手にするんだからさ、そこはちゃんとした対応をしなきゃならんと思うのよ。内容が内容だけに、一つでも変なことを書いたらそこに付け込まれて全否定されちゃうもん。それで終わっちゃうでしょ。実際、鼻血以外の部分もひっくるめて風評被害がどうのこうのって、国会議員まで含めた形で寄ってたかってぶったたかれてたじゃん。

そんな中、おいらみたいなチンピラがね、メール代わりに使っているだけの読者が数名しかいないこんなクソブログの中でいくら「鼻血以外は正しいこと書いてる」などと弁護してみたところでさ、そんなの何の意味があるんだ?その行為の延長線上には、放射能汚染を理屈抜きで全否定したくてしょうがない連中を相手にした論争まで視野に入ってきちゃうし(←読者数名のくせに余りに大げさではあるが、「そういう性質の発言になる」ってことだ)、そんなのと戦う方向でのくどい説明なんてのは不毛で全くの労力の無駄。だから手短に書いたのだ。

「鼻血のくだりはでたらめだが、結論だけは共感できる。」

あんたに向けたコメントなのだから、これで十分でしょ?

てな感じで、このテーマについて書き散らかしたことで、図らずも自分の意図とは別のところで「鼻血以外は正しい」的な意見を書く結果になっちゃったけど、こういうのは今回だけだ。今後そうしたことは気にしないし、いちいち断り書きなど書かない。なぜならあんた相手にいちいち面倒くさいから。これからは「うるせえ、これしきの事が理解できんのか、アホめ!」の一言で終わらせるので、了解よろしく。

んじゃ。

(メレ)

  1. 2015/03/04(水) 20:24:23|
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レンズの分類

以下のような感じだ。

●5D3のメリットが享受できるレンズ
SIGMA 15mmF2.8 Fisheye、SIGMA 50mmF1.4 Art、EF70-200mmF4L IS、EF200mmF2.8L、SIGMA 50-500mm

●できれば5Dの方がいいけど、5D3でも遜色ないってレンズ
EF35mmF2 IS、EF85mmF1.8

●5Dじゃなきゃダメな(5D3だと画質劣化が分かっちゃう)レンズ
TAMRON 28-75mmF2.8(A09)、EF50mmF1.4、EF300mmF4L

まあこんな評価、日によって変わったりもするから、こんなところに書き残したところで当てにすらならんのだが・・・。あと、あんたの手持ちレンズ(APS-C用レンズ)についてだが、こればかりは推測するしかないんだけど、ソコソコの水準にある単焦点レンズは両方使える真ん中の評価に(5D>5D3だけどね)、いつも使っているただのあの標準ズームなんかは下(only for 5D)に評価されることになると思うよ。あんたのそのカメラは5D3より更にドットピッチが狭いので、評価結果はどうしたって厳しいものになるからね。(←それにしても、このような評価にそもそも何の意味があるんだろうか?)

んじゃ。

(メレ)

  1. 2015/03/03(火) 20:52:45|
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画素数

うん、確かにそう捉えられても仕方がない書き方をしてきたように思う。つーか、もともとそういうつもりで書いてたからね。

「センサーの画素数が1画素でも多ければ、ドットピッチがその分狭まるので画質は劣化する。この画質劣化はレンズの色収差に基づくものなので、センサー技術の進化とは何も関係がない。即ち、センサーの新旧を問わずドットピッチが狭いセンサーの方が画質は確実に劣るのだ。」

こんな感じかな。でもね、やっぱりこれはこれで正しいでしょ?違うのは、画質ってのはこれ以外の要素由来の側面もあるってのにそこに一度も触れてこなかった。そういうことでしょ?

ドットピッチ由来の画質の低下があるにせよ、センサー技術の進化で色収差以外の部分由来の画質が向上することで、画素数が増えてもトータルでの画質は下がらない、あるいは向上している、なんてことはあり得るだろう。おいら自身、5D3を使用してきてその可能性を相当身近に感じるようになってきている。

明るい環境下で普通のレンズを用いて普通の被写体を撮る場合の画質を比較するなら、5D3よりも5Dの方が上だ。これは今でも絶対にそうだと言い切れる。ただ、撮影条件が悪くなったりすると途端にこの関係は逆転する。高感度耐性の違いによるものなどがそれだ。また、装着レンズによっても優劣が正反対の結果になったりする。よって、その総合的な評価は簡単ではない。個別条件下での優劣は一般化が難しいので、実質的にはケースバイケースということになるのだろう。

ただ、定性的に次のことくらいは言えると思う。

「いいレンズを使っていれば5D3の技術進化が生きもするだろうけど、ヘボいレンズを使う限りはいつでもどこでも5Dの方がいい。」

言い換えると、5D3のメリットを享受するためには質の高いレンズが必要ってことだ。これはこれまでも繰り返し述べてきたことなので、今さら説明の必要もないでしょ。更にこれを進めて考えると、画素が5D3の2倍以上ある5Dsなどは、おいらの手持ちのレンズごときではメリットよりもデメリットばかりが目立ってしまうので、買っても無意味。このように、この前のエントリーでも述べたこの結論へとつながっていく。

結局、どこに線を引くかだ。へなちょこレンズでの撮影機会が多い者にとっては5Dの方がずっと有用だろうが、手元に高額高級なレンズを大量に保有しているような人にとっては5D3の方がいいだろう。おいらはっつーとビミョ~なところにいる。TPOにより優位に立つカメラが変わるので、それに応じて使い分けることになる。実際、使い分けてるし。

画素数の臨界点ってどこにあると思う?おいらは「等倍で使えない画質になる画素数」ってのは画素数過多だと思っている。言い方を変えると、それぞれの撮影において解像するギリギリの画素数が理想ってことだ。よって当然、使用するレンズによってこの臨界点は変動する。そう言う意味で、5D3ってのはソコソコ優れたレンズを対象と考えたときに結構いいポジションにあるカメラではないか。そう思い始めている。

5D3ってのは、おいらが保有しているレンズでの撮影を前提にしても、ある条件下では5Dを上回るし、ある条件下では5Dを下回る。その優劣頻度がバランスよくブレンドしていて、5Dと5D3の使い分けが楽しかったりする。ってことで、これはもう100%結果論ではあるけども、おいらったらおいらにとっての結構いいカメラを買ったって言えるんじゃないか?そんなふうに思い始めているのであ~る。

あんた、本当に5Dsを買いたいなら買ったらいいじゃん。おいらは止めないよ。「バカなヤツ」と思うことだろうが止めはしない。「お前ったらアホすぎる」って直接言うことだろうが止めはしない。だって、誰が何を買おうがそんなの自由だもん。理屈はどうあろうとも、「とにかくこれが欲しい」と物欲ばかりが先行するなんてこと、いくらでもあり得るからね。何かが欲しくてそれを買える財力があるのならば、つべこべ言ってないで買っちゃえばいいのだ。

そうはいっても、あんたは残念ながらL単を一本も持ってないよね。あるのはたいしたことのないLズームとへなちょこズームだけ。ぶっちゃけ言うなら、これって要するに5Dsに使えるレンズを持っていないってことと同義だと思うよ。だからといって、今からあのぼったくり価格のL単を買い揃えていくなんて余りにしんどすぎるだろう。よってこの際、いっそのことシグマArtの方を取り揃えていったらどうだい?これなら5Dsが生きるんちゃう?シグマArtなら5Dsに太刀打ちできるようにも思われるので、毒食らわば皿までってことでどうだろうか?

んじゃ。

(メレ)

  1. 2015/03/01(日) 18:17:55|
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プロフィール

ゆたこた

Author:ゆたこた
サッカーと写真と車等々について書き散らかします。

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